おふみ 忘れられた噺

鳥蔵柳浅の古典落語を歩く、今回は「おふみ」。

最近耳にしない話ですが、「おふみ」のあらすじはというと、

日本橋あたりの酒屋の旦那、お妾がいる事が奥方にばれて、もう女の家には金輪際近づかぬと固く誓わされたところです。

歌川芳虎「東京日本橋風景」(明治3年)の画像。
【歌川芳虎「東京日本橋風景」明治3年 文明開化の日本橋、和と洋が混在する光景です。】

そんなある日、赤ん坊を懐に抱いた男が祝い酒を買いに来ます。

ついでにちょっと持てないので運ぶのに誰かついて来てほしいというので店の小僧の定吉をお供に付けました。

ある路地まで来ると男にうまいこと言われて定吉は赤ん坊を抱いて置いてけぼりに。

すっかり定吉が困りはてたところに、ばったり番頭さんと出くわします。

歌川広重三代「東都名所図会 日本橋 富岳の遠景」(明治11年)の画像。
【歌川広重三代「東都名所図会 日本橋 富岳の遠景」明治11年
日本橋界隈の賑わいがよく分かります。】

事情を聴いた番頭さん、定吉と赤ん坊を店に連れて帰ります。

店では、捨て子だと大騒ぎ。

案の定、お包みから置手紙が見つかります。

これを見たおかみさん、もう子供はできないだろうと諦めかけていた折でしたので、大喜びしてうちの子にすると言い出します。

旦那も承知して、育てるからには乳母を置かなくてはと、さっそく早速蔵前第六天社の慶庵「雀屋」(職業斡旋所)まで出かけていきました。

ところが、旦那が足を向けたのは柳橋同朋町、なんと切れたはずの女の家。

実はこれ、旦那の仕掛けた全くの狂言。

お妾のおふみに子ができたので、おふみのおじさんを使って子を捨て子に見せかけて、赤ん坊を家に入れてしまおうという図々しい魂胆です。

もちろん、番頭さんもグル、うまうまとお妾さんを乳母にして赤ん坊もろとも家に引き取ってしまいます。

おかみさんもすっかり騙されて赤ん坊に夢中、しまいには乳母のおふみまで気に入る始末。

喜多川歌麿「手鑑の母子」(文化元年)の画像。
【喜多川歌麿「手鑑の母子」文化元年
「おふみ」では、おふみの人物像についてほぼ触れていません。
想像するに、旦那が気に入るくらいの器量とおかみさんが乳母で不自然に思わない程度の女らしさ、そしてさりげない気遣いのある女性のようにイメージしています。】

残る問題は定吉、普段から妾宅でおふみに会っていたので、前から顔見知り。

旦那は小遣いをやって定吉に口をつぐむよう約束させます。

しかし定吉は以前の癖で、おふみの名に様をつけて呼んでしまう、旦那は様付けで呼ぶと裸にひん剥いて放り出すと脅しつけます。

何とか無事に過ぎた数日後。

おかみさん、旦那がいないの気付きます。

「ちょいと定吉や、旦那様はどこにお出でかね」

「はい、おふみさ、じゃなかった、おふみを土蔵に呼んでらっしゃいます。」

乳母と土蔵とは疑わしいと嫉妬の炎に焼かれたおかみさん、ものすごい形相で土蔵に駆け込みます。

それを察した旦那、「我先や人や先、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱えております。

がらりと戸を開けたおかみさんは面食らって定吉に、「定吉、どうゆうことだい。旦那様がよんでいるのはおふみじゃなくって一向宗のおふみ様だよ!」

定吉の答えがサゲです。

この噺、上方の「お文」を移したもの、時期ははっきりしませんが明治の中頃かと思われます。

本は「権助魚」の後半部分を独立させたとの説もあります。

一向宗のお文と言うくだりが分かりにくいからか、最近ではめったに口演されることがないようです。

道徳的問題は別として、噺はまとまりもよく、見せ場もあってよい噺と思いますので、ちょっと残念に思うところです。

【浅草橋から屋形船が並ぶ神田川下流側の柳橋を望む。
神田川を挟んで左手が雀屋のあった柳橋、右手がおせんの暮らした妾宅のあった柳橋同朋町。】

噺の中だけですが、蔵前第六天社の慶庵「雀屋」と言うのが出てきます。

蔵前第六天社は現在の榊神社(東京都台東区蔵前一丁目4)のことで、関東大震災までは篠塚稲荷(同 柳橋一丁目5)の西側に鎮座していました。

また、慶庵 別名口入れ屋とは当時の人材斡旋所。

ひとの多いところに設けられていたのですが、特に花柳界にはつきものでした。

花柳界では女中や下働きなどで多くの女手が必要だったのが理由のようですが、今回の乳母もここで頼むと見つかりやすいと納得いく環境だったようです。

次回では、古典落語「おふみ」の舞台を歩いてみたいと思います。

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