あまりにも短い生涯 問屋橋(とんやばし)編 ②

前回は問屋橋が架かっていた浜町川についてみてきました。

それでは、いよいよ問屋橋がどのような橋だったのかを見ていきましょう。

長い歴史を持つ浜町川に初めて問屋橋が架けられたのは関東大震災からの復興事業でした。

「関東大震災の被害、浜町河岸」(『日本橋消防署百年史-明治14年-昭和56年』日本橋消防署、1981国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「関東大震災の被害、浜町河岸」(『日本橋消防署百年史-明治14年-昭和56年』日本橋消防署、1981国立国会図書館デジタルコレクション)】

関東大震災では問屋橋周辺も一面の焼け野原となるほどの大きな被害にあっています。

「関東大震災の被害、浜町河岸」(『日本橋消防署百年史-明治14年-昭和56年』)を見ると、浜町川から両国橋まですべてが焼けてしまった様子が分かります。

このような状況でしたので、復興では東京を新しい街に造り変える都市計画が立てられました。

そしてその中で、新しい道路・補助線9号が計画されて、この道が浜町川を渡る所に新しい橋を架けることになりました。

この補助線9号という道路は、「北鞘町ヨリ矢ノ倉町ニ至ル、延長2,073米、幅員16米」の道路(『帝都復興事業誌 土木篇(上巻)』)で、現在も御幸通りとして利用されています。

「千代田小学校到着の昭和天皇」(『復興記念』東京市日本橋区編(東京市日本橋区、昭和5年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「千代田小学校到着の昭和天皇」『復興記念』(東京市日本橋区編(東京市日本橋区、昭和5年)国立国会図書館デジタルコレクション)】

ちなみに、御幸通りという名前は、昭和天皇が昭和5年(1930)に関東大震災からの復興をご自分の目で見られるため、千代田小学校(現在の日本橋中学校)への巡幸時に利用されたことにちなんで名付けられました。

「千代田小学校到着の昭和天皇」『復興記念』(昭和5年)はその時の模様で、撮影直前にこの車が問屋橋を通ったと思われます。

また、現在もこれを記念した記念碑が日本橋中学校横に残っています。

日本橋中学校横に建つ行幸記念碑の画像。
【日本橋中学校横に建つ行幸記念碑】
「千代田小学校校舎」(『復興記念』東京市日本橋区編(東京市日本橋区、昭和5年)国立国会図書館デジタルコレクション))の画像。
【「千代田小学校校舎」(『復興記念』東京市日本橋区編(東京市日本橋区、昭和5年)国立国会図書館デジタルコレクション)】

ちなみに、行幸先の千代田小学校はこんなところでした。(「千代田小学校校舎」(『復興記念』昭和5年)

最新式の小学校として建設された千代田小学校は、来るべき時代を先取りしたモデル校として国中に喧伝されていきます。

改めて問屋橋に話を戻しまして。

この橋は、着工したのが昭和2年(1927)10月、完成したのが昭和4年(1929)2月で工事期間が495日、橋長14.0m、幅員16.0mです。

工事費は40,135円、面積当たりの単価は179円。

この橋は完成してすぐに昭和天皇が通られるという栄誉にあずかったわけです。

こうして関東大震災からの復興事業で問屋橋が誕生したのですが、そのわずか16年後に大きな試練が訪れます。

「東京大空襲で焦土と化した東京」(
『日本橋消防署百年史 明治14年-昭和56年』日本橋消防署、1981国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「東京大空襲で焦土と化した東京」(『日本橋消防署百年史-明治14年-昭和56年』日本橋消防署、1981国立国会図書館デジタルコレクション)】

太平洋戦争末期の昭和20年(1945)3月、米軍による東京大空襲によって東京の下町一帯は壊滅的被害を受けてしまいます。

「東京大空襲で焦土と化した東京」(『日本橋消防署百年史-明治14年-昭和56年』)を見ると、問屋橋(赤矢印の橋)周辺も例外ではなく、一面の焼け野原となりました。

そんな中でも この橋はなんとか空襲の劫火にも耐え抜いて、今度は戦災からの復興に役立つはずでした。

しかし、ここで新たな問題に直面します。

それは、空襲によって発生した膨大な灰燼の処分という難問で、これが戦後復興を阻む深刻な状況を生みだしていたのです。

昭和22年撮影航空写真(国土地理院Webサイトより、USA-M451-36 昭和22年撮影【問屋橋部分】)の画像。
【昭和22年撮影の空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M451-36【問屋橋付近拡大、赤矢印は問屋橋】に加筆)】

昭和22年撮影の空中写真を見ると、問屋橋周辺は空き地が多く、あちこちに灰燼によるとみられる黒い小山ができているのが見えると思います。

『中央区史 下巻』によると、「道路まで灰燼がうず高くつまれ、主要道路のこれをかたづけることが終戦後の急務であった。(中略)(灰燼の多い千代田・港・台東)区の道路はどこも灰燼の山が築かれている有様であり、区内でも広いので有名な昭和通りも、中央部に灰燼の山をなす状態であった。これでは交通・衛生・公安上からもそのまゝにしておけない」という惨憺たる状態でした。

そこでこの問題を解決するために、「比較的流れがとまつたりして現在舟行に役立つていない川で、浄化の困難な実情にあるものを埋立て宅地とし、その土地を売つて事業費を取り返す」という一石二鳥の方策が採用され、浜町川の北半が対象となったのです。

昭和38年撮影の空中写真(国土地理院Webサイトより、MKT636-C8-23(1963・6・26)【問屋橋部分】)の画像。
【昭和38年撮影の空中写真(国土地理院Webサイトより、MKT636-C8-23(1963・6・26)【問屋橋部分拡大、赤矢印は問屋橋跡】に加筆)】

こうして浜町川の埋めたてとともに昭和23年から問屋橋の撤去が始まります。

翌昭和24年には灰燼による浜町川の埋め立てが始まり、昭和25年に終了しました。

昭和38年撮影の空中写真を見ると、すでに問屋橋の痕跡は見られません。

こうして問屋橋はわずか20年ほどで、交番だけを残して消滅したのです。

あまりにも短いこの橋の生涯を思う時、私はこの橋とこの橋を作った人々に ちょっと同情するのでした。

次回は問屋橋をめぐるお話しのその後です。

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