ピストル強盗清水定吉と小川巡査 小川橋(おがわばし)編 ①

私の義母が、珍しく私に質問してきました。

「近所の人に小川巡査殉職の話を聞いた。信じられない話だったので、話に出てきた久松警察横の碑を見に行くと、確かにそのように書いてあった。この事件についてどう思うか?」という内容でした。

「小川橋の由来」碑の画像。
【「小川橋の由来」碑】

恥ずかしながら小川巡査殉職のことを知らなかった私は、あわててその人物のことを調べました。

こうして小川巡査と小川橋を巡る物語と出会ったのですが、そこには信じられないような事実が満載で、大いに驚くことになります。

ということで、今回は小川巡査と小川橋の物語をお伝えしたいと思います。

小川橋跡周辺の地図の画像。

義母が話してくれたように、久松警察署の横にある児童公園入口に、「小川橋の由来」という立派な碑が建っていました。

そこにはピストル強盗清水定吉逮捕で殉職した小川巡査のことが記されて、彼の功績を顕彰しているのです。

小川橋跡周辺の地図(近隣の住所表示板の部分を拡大、赤丸が小川橋跡です)では、トイレの表示に隠れてしまっています。

ピストル強盗清水定吉?どこかで聞いたことあるけど…よく知らないので、改めて この事件について新聞報道などで経過を追ってみましょう。

なお、文章は現代仮名遣いに改ためたうえで、要約しています。

いまだ文明開化の熱気冷めやらぬ東京の街で、正体不明のピストル強盗が出没して市中を震撼させていました。

明治13年10月30日神田区東福田町質商松岡半助方で半助を殺害した上で家族を針金で縛り有り金を奪って逃走する事件、明治18年8月26日浅草区黒船町8番地酒商小西金七方では金七母を射殺して金品を強奪した事件など、明治14年から市内各所で5年間にわたって同様の手口の凶悪事件が連続して発生していたのです。

大がかりな捜査にもかかわらず事件の手がかりさえつかめない状況に強い危機感を持った当時の警視総監・三島通庸は、自ら無頼漢に扮して毎夜、市中に出て手掛かりを探すという熱の入れようです。

ところが、三島総監が見回り中の巡査の取り調べを受けるという珍事までおこる始末。

久松署長松田警部も黒船町の事件を受けて、管内の警戒を強めており、配下の一人である元加賀藩士の小川侘吉郎巡査も犯人逮捕の熱い心を胸に捜査に当たっていたのでした。【『名探偵になるまで』】

そんな折、事件発生を時事新報では以下のように伝えています。

「明治19年12月3日午前5時頃、日本橋区馬喰町2丁目1番地書肆石川スマ方に侵入者があり、雇人岡島長次郎がこれに気付いて声を上げたところ、右の股をピストルで撃たれるも犯人は何も取らずに逃走。人声と発砲音を聞いた車夫が派出所に通報した。」【「強盗捕縛」(時事新報、明治十九年十二月四日付)】

「久松署に待機していた小川巡査は、事件発生の報を受けて現場に急行する途中、日本橋区橘町4丁目の四つ角で不審な人物と遭遇し、これを呼留めたところ、かの人物は懐からピストルを取り出して発砲、続いて短刀で切りつけたのち逃走した。横山町2丁目まで負傷した小川巡査があきらめずに追ったところ、犯人は再び短刀で小川巡査を襲撃、そこに他の巡査が到着して取り押さえた。」【「清水定吉死刑宣告」(東京日日新聞、明治二十年八月十二日付)】

いっぽう、時事新報は少し異なる逮捕状況と共に続報を伝えています。

「犯人は小川巡査と出合い頭にピストルを発砲するも弾は脇にそれ、小川巡査が犯人を組み付いて道に押さえつけたところ、犯人は短刀で小川巡査の胸部を二三か所突いて傷を負わせたところにもう一人の巡査が到着して犯人の捕縛に成功した。」【「強盗捕縛」(時事新報、明治十九年十二月四日付)】

「犯人は神奈川県下の八王子辺り在住の「太田清光」と名乗ったが、手口などから明治15年以来常にピストルを携えて数十か所に押し入った大賊とみられる。この犯人の捜索に当局は二千円余の大金を費やしている。負傷した小川巡査へは手当金がおくられた。」【同上】

世間を騒がせたピストル強盗がようやく捕縛されました。しかし、犯人は偽名を語っており、全容解明に未だ至っていません。次回では、捜査の進展によって見えてきた事件の真相に迫っていきます。

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