津山藩鍛冶橋上屋敷を歩く【維新の殿様 松平家・津山藩(岡山県)⑭】

《最寄駅:JR東京駅、東京メトロ丸ノ内線・東京駅》

安政2年(1855)に慶倫が津山松平家を相続した時、津山藩には鍛冶橋に上屋敷、高田に下屋敷深川西大工町谷中本村に抱屋敷(私有地)と砂村新田に広大な抱地(私有地)がありました。

また、隠居した松平斉民(確堂)は、蠣殻町に浜町中屋敷と隣接する清水家屋敷を預り、さらに姿見邸を置いています。(『津山市史 第5巻-幕末維新-』)

今回はこのうち、鍛冶橋の上屋敷跡と周辺を歩いてみましょう。(Googleマップは目的地の津山藩鍛冶橋上屋敷跡近くの江戸城鍛冶橋門跡を示しています。)

コースマップ(北半分)の画像。
【コースマップ(北半分)】
スタート地点の東京駅日本橋口(北町奉行所跡)の画像。
【スタート地点の東京駅日本橋口(北町奉行所跡)】

北町奉行所跡

スタートはJR東京駅日本橋口です。

じつはここ、江戸時代は北町奉行所だった場所で、駅に沿ってぐるりと大丸まで歩くと案内板が設置されていました。

北町奉行所(千代田区丸の内1-8)がある場所は、かつて江戸城の外濠に架かる呉服橋門内でした。

呉服橋門は、江戸随一のにぎわいを誇った日本橋と江戸城をつなぐ重要な場所。

そして北町奉行所といえば「遠山の金さん」、そのモデル遠山左衛門尉景元が北町奉行になったのは天保11年(1840)頃のことです。

江戸の治安を南町奉行所と月ごとに交代しながら守る重要な場所でした。

東京駅「グランルーフ」の画像。
【東京駅「グランルーフ」】

東京駅八重洲口を歩く

それでは、北町奉行所跡の碑から東京駅の東側に沿って南方向に歩いてみましょう。

見上げると、洗練された構造美の白い大屋根空間が目に入ってきますが、これが「グランルーフ」、新しい東京駅八重洲口のシンボルです。

東京駅八重洲口の再開発プロジェクトは平成21年(2009)にはじまり、令和4年(2022)の完成予定とのこと、完成が楽しみですね。(鹿島建設HP、JR東海HP)

ちなみに、八重洲の名は江戸時代のはじめに徳川家康の外交顧問だったオランダ人ヤン・ヨーステン(?~1623)の屋敷があったことにちなんでいます。

さて、東京駅に戻って八重洲口を南下、タクシー乗り場やバスターミナルを越えて、さらに南を目指しましょう。

「鍛冶橋見附」(『江戸見附写真帖』蘇武乾造編(向陵社、大正5年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【「鍛冶橋見附」『江戸見附写真帖』蘇武乾造編(向陵社、大正5年)国立国会図書館デジタルコレクション 】
「鍛冶橋遠景 東京名所」(井上安治(福田熊二良、明治10年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【明治初めの江戸城外濠と鍛冶橋(「鍛冶橋遠景 東京名所」井上安治(福田熊二良、明治10年)国立国会図書館デジタルコレクション)】

津山藩鍛冶橋上屋敷跡

「グラントウキョウ サウスタワー」を越えると、フォーシーズンズ丸の内ホテルに到着です。

実はここがかつての津山藩鍛冶橋上屋敷跡で、ホテルとサウスタワーの半ばくらいまでがその敷地でした。

来た道の右側に見える大通りが外濠通り、かつての江戸城外濠で、東京大空襲で発生したがれき処理のために埋め立てられて消滅しています。

この外濠に架かっていたのが鍛冶橋で、ここには江戸城を守る見附の一つ、鍛冶橋御門が設けられていました。

鍛冶橋御門は寛永6年に東北地方の大名によって枡形と門が築かれますが、明治6年(1873)に撤去されています。

永代橋と江戸城をつなぐ重要な場所だったこともあり、橋の名は、現在は外堀通りと鍛冶橋通りが交わる鍛冶橋交差点としてその名をとどめています。

ところで、交差点横に巨大な円筒形の建物が建っているのが気になりませんか?

この建物に掲示されたプレートによると、すぐ横の外濠通り地下を通る首都高速八重洲線で異常が発生した際の緊急脱出口・資材搬入口で、普段は排気口として機能するのだとか。

見回してもかつての藩邸のおもかげは全く見られませんでしたが、美しく整備された公園はビジネスマンたちの憩いの場となっていました。

津山藩上屋敷(「松平越後守」)(「大名小路神田橋内 内櫻田之圖』影山致恭(尾張屋清七、嘉永2年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【津山藩上屋敷(「松平越後守」記載場所)(「大名小路神田橋内 内櫻田之圖』影山致恭(尾張屋清七、嘉永2年)国立国会図書館デジタルコレクション)】

津山藩鍛冶橋上屋敷とは

ここで改めて津山藩鍛冶橋上屋敷についてみてみましょう。

この屋敷は、元禄年間(1688~1704)に設置されたもので(『麹町区史』)、ほぼ範囲を変えることなくその後幕末まで使われています。

そうした中、慶応4年(1868)9月5日に新政府は藩邸の整理方針を発表し、その整理に着手しました。

すぐさま津山藩が鍛冶橋門内邸宅11,092坪余を継続して使用できるように願い出てこれを守ろうとします。

新政府もこれに答えて、明治元年(1868)11月には静寛院宮様守警中は拝借してよいとの達しを弁事官が下していました。

静寛院宮様とは皇女和宮のこと、和宮警固について慶應4年(1868)4月確堂が内勅を受けたのは、前にみたところです。(第6回「長州征伐と確堂の大活躍」参照)

しかし明治3年(1870)には屋敷を鳥取畔に譲るよう東京府から沙汰がありますが、これを断るかわりに、敷地の一部2,377坪を上地します。

これは、上地された周囲の大名屋敷が練兵所という草地に代わっていく状況にあって、津山藩の誇りであった上屋敷を何とか守ろうとしたのかもしれません。

残念ながら、明治4年(1871)10月に兵部省用地として上地することになり、ついに同年11月5日に東京府へ引き渡しました。(『津山市史 第5巻-幕末維新-』)

その後、藩邸は取り壊されることなく庁舎として利用されたうえ、明治7年(1874)の警視庁発足に際して、鍛冶橋門内の旧津山藩邸がそのまま庁舎に使われることになったのです。

警視庁鍛冶橋第一次庁舎 (Wikipediaより20210210ダウンロード)の画像。
【警視庁鍛冶橋第一次庁舎 Wikipediaより】
「上屋敷跡(警視庁)」(『明治東京全図』明治9年(1876)国立公文書館デジタルアーカイブ )の画像。
【明治9年頃の津山藩上屋敷跡(警視庁)(『明治東京全図』明治9年(1876)国立公文書館デジタルアーカイブ )】

ちなみにこの警視庁は、現在の東京都を管轄する警察組織とはちがって、内務省直属の組織でした。

その後、明治10年(1877)に警視庁は隣接する八重洲に拡張移転しています。(『麹町区史』)

ここまで津山藩上屋敷についてみてきましたが、どうして警視庁がこの地に置かれることになったのでしょうか?

この謎を解くために、今度は南へと向かいましょう。

コースマップ(南半分)の画像。
【コースマップ(南半分)】
南町奉行所跡の画像。
【南町奉行所跡】

南町奉行所跡

外濠通を400mほど南へ行くと、有楽町イトシアに到着、交通会館との間の道を曲がると、JR有楽町駅中央口が見えてきました。

このあたりがかつての南町奉行所で、地下道入り口の上に南町奉行所跡の碑が建てられています。

有楽町イトシア建設に先立って平成17年(2005)に発掘調査を行ったところ、南町奉行所に関連するものが出土しています。

調査では、石組や井戸、土蔵の跡や穴倉などの遺構が見つかるとともに、「大岡越前守様御屋敷」と書いた木簡が出土するというミラクルがありました。(有楽町イトシアHP)

大岡越前守忠相は、八代将軍吉宗の時代にあたる享保2年(1717)から元文元年(1736)まで南町奉行を務め、その裁定は「大岡裁き」として現代においても称賛される名奉行、ドラマなどでご覧になった方も多いのではないでしょうか。

この散歩のはじめに北町奉行所跡で見たように、町奉行所は江戸の行政・司法・警察など広範囲な職務を担っていました。

この町奉行所は南と北の二つに分かれて、月ごとに交代して職務に当たっていましたが、幕末には北町奉行所が呉服橋、そして南町奉行所が数寄屋橋に置かれていたのです。

明治7年(1874)に警視庁が設置されたのは、町奉行所が担っていた警察機能を統合して一つにした訳ですから、両町奉行所の中間にあたる鍛冶橋が位置的に最適だったわけです。

そのうえ、敷地も両奉行所を合わせたくらい広大でしたので、まさにうってつけだったと言えるでしょう。

しかも、北町奉行所は寛永年間(1624~1645)頃、南町奉行所は元禄年間(1688~1704)頃にはそれぞれ鍛冶橋門内に置かれていたという歴史的事実もあって(『麹町区史』)、鍛冶橋門内が江戸の行政や警察となにかと縁のある場所だったことも関係しているのかもしれません。

ところで、有楽町は独自の魅力ある歴史があるのですが、この町は別の機会に改めて見たいと思います。

今回の散歩は、ここJR有楽町駅中央口で終了です。

JR東京駅日本橋口の北町奉行所跡から、鍛冶橋の津山藩上屋敷を経由して、JR有楽町駅中央口の南町奉行所まで、寄り道しながらゆっくり歩いて約1時間でした。

ところで、鍛冶橋周辺には多くの見どころがありますので、時間があれば、ぜひ足を延ばしてみてください。

三菱1号館
【三菱1号館】

三菱1号館

イギリスの建築家ジョサイア・コンドルが設計、明治27年(1894)に三菱がはじめて建築した洋風事務所建築を忠実に復元した建造物です。

元の建物は老朽化のために惜しまれつつも昭和43年(1968)に取り壊されたのですが、平成22年(2010)に再建、現在は美術館となっています。

明治生命館の画像。
【明治生命館】

明治生命館

皇居の馬場先門の前に建つ列柱をもつ古典様式を取り入れた鉄筋コンクリートのビルが重要文化財の明治生命館で、昭和9年(1934)の竣工、設計は東京美術学校教授・岡田信一郎です。

この建物は、なにより第二次世界大戦後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が置かれた場所としてご存じの方も多いのではないでしょうか。

内部には連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーのオフィスも保存されています。

皇居二重橋の画像。
【皇居二重橋】

皇居・二重橋

鍛冶橋通りをそのまま西に800mほど進むと、濠と石橋、華麗な装飾橋、伏見櫓、高い石垣と深い緑と、見覚えのある風景に出会えました。

ここは二重橋、皇居の正門、みなさんもテレビなどで一度はご覧になったことがあると思います。

東京駅丸の内口の画像。
【東京駅丸の内口】

この文章を作成するにあたって、以下の文献などを参考にしました。

また、文中では敬称を略させていただいております。

引用文献など:

『麹町区史』東京市麹町区編(東京市麹町区、1935)

『警視庁百年の歩み』警視庁創立100年記念行事運営委員会、1974

『津山市史 第5巻-幕末維新-』津山市史編さん委員会(津山市役所、1974)

『角川日本地名大辞典 13 東京都』「角川地名大辞典」編纂委員会(角川書店、1988)、

『江戸・東京 歴史の散歩道2 千代田区・新宿区・文教区』街と暮らし社編(街と暮らし社、2000)

『藩史大辞典 第6巻 中国四国編』木村礎・藤野保・村上直(雄山閣、2015)

鹿島建設HP、JR東海HP、有楽町イトシアHP

次回は津山藩浜町中屋敷・松平子爵家浜町邸です。

トコトコ鳥蔵ではみなさんのご意見・ご感想をお待ちしております。

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