維新の殿様  松平定昭(まつだいら さだあき)【久松松平家・松山藩(愛媛県)⑤】

前回は長州征伐で大敗北を喫した松山藩、今回はこのピンチの中で藩主となった松平定昭の時代を見ていきたいと思います。

松平定昭(Wikipediaより2020.8.24ダウンロード)の画像。
松平定昭(Wikipediaより)

松平定昭藩主就任

定昭は弘化2年(1845)に伊勢国津藩主藤堂高猷の四男として生まれました。

安政6年3月、第13代藩主勝成の養女玲子(第12代藩主勝善の娘)の婿養子となって、勝成より定昭の名をもらって名乗ります。

実は貞明は元治元年11月の第一次長州征伐、慶応2年6月の第二次長州征伐の両方で松山藩兵の総指揮を執っていました。

そして長州征伐の責任を取る形で勝成が隠居するのにあわせて、慶応3年(1867)九月二十日、定昭は22歳で家督を相続し第十四代藩主となったのは前回に見たところです。

定昭、老中就任

そして慶応3年(1867)9月23日に江戸で在勤していた定昭は、23歳の若さで幕府の要請に従って老中に就任します。

松平定昭(Wikipediaより2020.8.24ダウンロード)の画像。
【松平定昭(Wikipediaより)】

こうして定昭は、まったく大変な時期に幕府の中枢に入ったのですが、これを聞いた国元では猛反発、やめろやめろの大合唱となってしまいます。

確かに藩の財政は破綻寸前ですし、屋代島での大敗北を考えると軍制改革はもう待ったなしですから、国元の意見ももっともといえます。

しかし多難な中で幕政を担う大役を引き受けたのですから、親藩としての自負もあって役目をしっかり果たしたいところです。

さらに、松山藩松平家の老中就任ははじめてのこと、しかも異例の若さでの就任ですから幕府からの期待もまた大きかったのは言うまでもありません。

いわば「二つの正義」の板挟みになった定昭はどう行動したのでしょうか?

なんと、在任一か月足らずで老中を辞任したのです。

この行動はあまりに無責任すぎると幕府からの信頼は一気に失われて、これ以後はほとんど蚊帳の外、一顧もされない状況となってしまいます。

では定昭の行動は身勝手なものだったのでしょうか?

徳川慶喜(『徳川慶喜公伝 三』渋沢栄一(竜門社、1918)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【徳川慶喜(『徳川慶喜公伝 三』
渋沢栄一(竜門社、1918)
国立国会図書館デジタルコレクション)】

大政奉還

じつは、定昭の決断の背景には、国元の反対と同時にもう一つ重大な事件があったのです。

その大事件とは、15代将軍慶喜による大政奉還です。

大政奉還によって徳川家は残るものの、将軍職と幕府は消えてなくなったのです。

ここまで見てきたように松山藩は佐幕を藩是として奉じてきたのですが、その幕府がなくなったのですから、ちょっとどうしていいか分からなくなってしまったのかもしれません。京都では大政奉還は当然という空気だったといわれていますが、国元の反対を抑えて京都でがんばっていた定昭にとって、耐え難いものがあったのかもしれません。

こうして定昭が老中職を辞任したのは、大政奉還からわずか四日後のことでした。

鳥羽伏見の戦い(『明治天皇聖徳大鑑』明治天皇聖徳奉賛会編(明治天皇御写真帖刊行会、1936)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【鳥羽伏見の戦い(『明治天皇聖徳大鑑』明治天皇聖徳奉賛会編(明治天皇御写真帖刊行会、1936)国立国会図書館デジタルコレクション)】

鳥羽伏見の戦い

当然、老中の職を投げ出した定昭は幕府から疎んじられてしまい、鳥羽伏見の戦いでは主力から外されてしまいます。

この時は幕命で摂津国梅田村付近の警護についていて、戦には全くかかわることができませんでした。

幕府が敗北しても詳しい情報が入ってこなかったのか、定昭は兵を松山に返して自身は堺へ向かい情報収取したのちに松山に帰っています。

鳥羽伏見の戦いではほとんど何もしてこなかった松山藩ですが、なにもしなかったにもかかわらず、会津、桑名、庄内、姫路の各藩とともに戦後は朝敵として追討令がだされてしまいました。

これ自体は松山藩にとって驚天動地、寝耳に水、藩内は今後の方針をめぐって大混乱となってしまったのは言うまでもありません。

朝敵とされてしまった松山藩、このピンチを松平(久松)家はどう乗り切るのでしょうか?

次回では松山藩の行動を追ってみましょう。

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