織田子爵家市ヶ谷薬王寺邸跡を歩く【維新の殿様・出羽国天童藩(山形県) ⑳】

《最寄駅: 都営新宿線新宿線 曙橋駅、都営大江戸線牛込柳町駅》

天童藩は、幕末に大名小路に上屋敷鉄砲洲築地に下屋敷を構えていましたが、明治に入って東京の各地を転々とした後に牛込区市ヶ谷薬王寺町に邸宅を構えました。

今回はこのうち、東京市牛込区市ヶ谷薬王寺前町五十二番地、現在の東京都新宿区市谷薬王寺町52番地にあった織田子爵家邸跡を訪ねてみたいと思います。

今回のコースは、都営新宿線新宿線 曙橋駅A3番出口からスタート、都営大江戸線牛込柳町駅東口がゴールのおよそ1km、アップダウンの多い行程です。

(グーグルマップは、織田子爵家市谷薬王寺邸跡の隣にある新宿区立薬王寺児童館を示しています。)

織田子爵家市谷薬王寺邸跡コースマップの画像。
【織田子爵家市谷薬王寺邸跡コースマップ】

曙橋

スタート地点の都営新宿線曙橋駅A4出口を出ると、目の前を靖国通が東西方向に走り、これをまたぐ形で陸橋があるのが目に飛び込んできました。

これが戦後初めての立体交差の曙橋で、全長112m、幅22m、駅名にもなっている地域のランドマークです。

この橋が渡しているのは外苑東通(都道319号)で、早稲田鶴巻町と麻布・飯倉を結ぶこの道は関東大震災からの帝都復興でつくられた幹線道路なのですが、この橋がつくられたのはずっと後の昭和29年(1954)になってからのこと。

当初から計画はあったものの、ようやく着工できたのは昭和12年(1937)、しかし戦争によって基礎工事のみで中断を余儀なくされました。

靖国通が谷地形になっているうえ、市ヶ谷には陸軍士官学校、現在の防衛省の巨大な敷地が広がっていて、通行するのがずいぶんと不便だったに違いありません。

ですから、この橋ができたときには荒木町の芸妓連も式典に出席するにぎやかさで、参観者1万人が集まって盛大にお祝いしたそうです。

この橋を眺めていると、「川がないのに立派な橋だね」なんて不思議そうに言っているご婦人方がおられましたが、曙橋は建設当初から道をまたぐ跨道橋としてつくられました。

また、橋の名前は公募で決められたそうで、確かに戦後復興にかける希望が込められているのを感じますね。(『新宿の散歩道』)

合羽坂の画像。

合羽坂と新五段坂

曙橋駅A4出口から回り込んで坂を上って外苑東通りにでてきました。

通りを挟んだ向こうに見える下り坂に「合羽坂」の案内、そして外苑東通りを北に行く上り坂には「新五段坂」の表示があります。

「合羽坂」の説明文が刻まれた碑には、『新撰東京名所図会』の一文が引いてあって、「四谷片町の前より本村町に沿ふて仲之町に上る坂路をいふ。」とありますが、この説明だと「新五段坂」は「合羽坂」の一部?それとも別名?と混乱してしまいます。

まずは「新五段坂」の元となった「五段坂」から見てみましょう。

五段坂は『新撰東京名所図会』によると、尾張藩邸の前にあった坂で、陸軍士官学校の構内になっていると記しています。

また、『東京の坂道』には「旧尾張藩邸は明治になってからは陸軍用地として使われ、士官学校、幼年学校などができると、その門から上る坂を地獄坂とよんだという。」とあります。

これらを総合すると、こういうことでしょうか。

「かつて名の知れた五段坂があったけど無くなったところに、となりに坂があったので、「新」をつけて名を移した。この坂は逆L字状に曲がる坂だったのだけど、長い直線部分は「新五段坂」となって、短い直線部分だけもとの「合羽坂」の名が残った」

なんとも不思議な感じですね。

ちなみに合羽坂の名は、『新撰東京名所図会』によると、坂の東南に蓮池という大きな池があって、ここにしばしば獺がでたのを合羽(河童)と間違えたのが名前の由来だそうです。

防衛省

新五段坂の東側は警視庁第五機動隊、その北には警視庁特科車両隊があって、訪れた時も訓練する声が響いていました。

その東には防衛省の広大な敷地が広がっているのですが、先ほどの警視庁の北には立派な門があって、その名前が防衛省薬王寺門、防衛省の裏門になっているのです。

この現在は防衛省になっている場所が、かつての尾張徳川家名古屋藩上屋敷跡地、その広大さにはやはり驚きを隠せません。

その後、尾張藩邸跡地に明治7年(1874)陸軍士官学校が開校、昭和22年(1945)に閉校されるまで続きました。

昭和16年(1941)には陸軍省・参謀本部もこの地に移転しています。

昭和21年(1946)から昭和23年(1948)にかけて、この地で極東国際軍事裁判が開かれたことを学校で習った方も多いのではないでしょうか。

昭和34年(1959)からは自衛隊の施設として利用されることとなったのですが、昭和45年(1970)に三島由紀夫ら盾の会が乱入して三島事件の舞台となったことでも有名です。

平成21年(2009)防衛省が赤坂檜町(現在の東京ミッドタウン)から当地に移転して、現在に至っています。(以上『新宿の散歩道』『国史大辞典』)

東京女子医科大学

防衛省薬王寺門の前は、外苑東通りが丁字路になっています。

ここから延びるのが女子医大通りで、ここから約400m西に行くと、東京女子医科大学と附属病院に続いていました。

この女子医科大学は、明治33年(1900)に飯田町4丁目9番地に吉岡彌生が東京女醫學校を設立したことに始まります。

大正元年(1912)東京女子医学専門学校に昇格、昭和27年(1952)に東京女子医科大学を開設しています。((『日本近代教育史事典』、東京女子医科大学Webサイトによる)

その後、日本で唯一の女子学生だけの医科大学として日本の医療に大いに貢献していくのですが、現在地への移転は明治36年(1903)ですので、信恒が市谷薬王寺町に住んでいたころも、多くの女性がこの地で学んでいたのですね。(『日本近代教育史事典』『国史大辞典』)

吉岡弥生肖像写真(『女性の出発』吉岡弥生(至玄社、1941)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【吉岡弥生肖像写真『女性の出発』吉岡弥生(至玄社、1941)国立国会図書館デジタルコレクション 】
設立当時の東京女子医科専門学校病院(東京女子薬科大学設置案内板より)の画像。
【設立当時の東京女子医科専門学校病院(東京女子薬科大学設置案内板より)】

織田子爵家市谷薬王寺邸跡地を歩く

外苑東通と女子医大通りが分岐する市谷仲之町交差点のすぐ北側が、織田子爵家市谷薬王寺邸跡地です。

『東京市及接続郡部地籍台帳』によると、信恒の邸宅があった52番地は広さ407.7坪、現在のパークリュクス市谷薬王寺、ライオンズマンション市谷薬王寺と個人住宅二棟がその範囲と推定できます。

「市ヶ谷薬王寺町織田子爵家邸宅付近」(『東京市及接続郡部地籍地図』東京市区調査会、1912 国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【市ヶ谷薬王寺町織田子爵家邸宅付近『東京市及接続郡部地籍地図』東京市区調査会、1912 国立国会図書館デジタルコレクション 】

南隣の53番地は旧武蔵国岩槻藩主子爵大岡忠量の邸宅がありました。

大岡忠量(1868~1932)は明治35年東京帝国大学法科大学校を卒業したのち、一年志願兵として日露戦争に従軍し、陸軍歩兵中尉となった経歴を持つ人物です。(『人事興信録 第8版』1928)

そして、斜め道向かいの36番地には児玉伯爵家の邸宅がありました。

そのため、織田子爵邸の北にある坂は児玉坂、そして通りは児玉坂通と呼ばれています。

ところで、この児玉伯爵家はそのような家だったのでしょうか?

児玉源太郎

児玉源太郎(1852~1906)は日露戦争において満州軍総参謀長を務めて、日本の勝利に導いた陸軍軍人・政治家です。

児玉源太郎(『近世名士写真 其1』近世写真頒布会1935 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【児玉源太郎『近世名士写真 其1』近世写真頒布会1935 国立国会図書館デジタルコレクション 】

嘉永5年(1852)閏2月25日徳山藩士の子として生まれ、戊辰戦戦争に参加したのち、陸軍に入りました。

佐賀の乱、神風連の乱、西南戦争に従軍し、士族の反乱を鎮圧します。

その後、昇進を重ねて、陸軍大学校校長、陸軍次官を経て、明治31年(1898)第4代台湾総督に就任。

その間、第4次伊藤内閣で陸軍大臣、第1次桂内閣で内務大臣を兼任し、明治37年には陸軍大将となりました。

日露戦争では前に見たように満州軍総参謀長として活躍し、満州軍総司令官大山巌を補佐し、明治39年陸軍参謀総長となるも、在任中に死去しています。(「近代日本人の肖像」、『国史大辞典』)

ちなみに、その嗣子の伯爵・児玉秀雄は牛込区本村町と市谷薬王寺町に合わせて10筆1334.4坪を保有する地主でもあります。(『地籍台帳』)

児玉秀雄

この伯爵・児玉秀雄(1876~1947)は貴族院議員を長く勤め(1911~1918、1919~1946)、岡田内閣で拓務大臣、林内閣で逓信大臣、米内内閣で内務大臣、小磯内閣で国務大臣・文部大臣をつとまた政治家です。(『国史大辞典』、国立公文書館アジア歴史資料センターWebサイトによる)

児玉秀雄(『貴族院要覧 昭和7年12月増訂 丙』貴族院事務局1933 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【児玉秀雄『貴族院要覧 昭和7年12月増訂 丙』貴族院事務局1933 国立国会図書館デジタルコレクション 】

経歴からみて、児玉秀雄と信恒は、いかにも接点がありそうに思えて調べてみたのですが、資料は見つかりませんでした。

この児玉伯爵邸も、現在はマンションになっています。

新宿区立薬王寺児童館

児玉坂を上ってみると、短いですがかなり急な坂であることに気づくと思います。

この坂の高低差がそのまま織田子爵邸裏手の高さ3~5mほどの崖になっていて、じつはその上の土地、51番地230.34坪も信恒が所有していました。(『地籍台帳』)

ただ、これだけの段差ですので、邸宅は崖の下部分で、崖の上は家作だったのでしょう。

この場所は現在、新宿区立薬王寺児童館と保育園が設けられて、子供たちの歓声が響いていました。

島村抱月(「近代日本人の肖像」国立国会図書館)の画像。
【島村抱月(「近代日本人の肖像」国立国会図書館)】

ちなみに、町内には作家の島村抱月が明治39年から明治44年まで暮らしており、この家に作曲家の中山晋平が上京した明治38年、書生として住み込みながら音楽学校に通っていたそうです。(『新宿の散歩道』)

中山晋平(Wikipediaより20210702ダウンロード)の画像。
【中山晋平(Wikipediaより)】

ここまで織田子爵家市谷薬王寺邸跡地を歩いてみてきましたが、残念ながらその痕跡は残っていません。

そこで、織田子爵邸跡地前を走る外苑東通りを渡ると緑地が設けられていますので、木陰のベンチで休みながら織田子爵家市谷薬王寺邸についておさらいしてみたいと思います。

織田子爵家市谷薬王寺邸

信恒は、明治22年(1889)8月3日、奥州中村藩相馬家当主・相馬誠胤の長男として、麹町区内幸町1丁目6番地の相馬子爵家邸宅で生まれました。

この邸内に同居していた、叔母の嫁ぎ先である織田子爵家の養嗣子となったあと、明治32年(1899)ころに、東京市牛込区市ヶ谷薬王寺前町五十二番地に引っ越したことは前に見たところです。(第13話「天童藩消滅」参照)

織田信恒(『浜口内閣』浜口内閣編纂所編(浜口内閣編纂所、1929)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【織田信恒『浜口内閣』浜口内閣編纂所編(浜口内閣編纂所、1929)国立国会図書館デジタルコレクション 】

この引っ越しは、子爵織田信敏が、信恒を養嗣子に迎える準備の一環で、この信恒が成人した暁には、信敏の二女・栄子と婚姻して生活することも見越したもので、この家から学習院に通いました。

じつは、信恒の妹ゑつと婚約者栄子は、ともに明治25年(1892)4月生まれ、二人はともに学習院女学部の同級生だったようで、ちょっと不思議な状態になっていたこともみたところです。(第14回「織田信恒登場」参照)

その後、養父信敏が明治34年(1901)6月6日に48歳でこの地で死去。

織田信敏(Wikipediaより20210624ダウンロード)の画像。
【織田信敏(Wikipediaより)】

子爵に叙された信恒は、京都帝国大学に進み、卒業後は日本銀行大阪支店勤務となり市谷薬王寺邸から離れます。

その後、欧米や中国を漫遊、帰国してからは市谷薬王寺邸に入って「正チャンの冒険」を企画、大ヒットを飛ばしたのです。(第15回「信恒と正チャンの冒険」参照)

昭和3年(1928)7月26日、貴族院議員補欠選挙で当選してからは、政治家として活躍したのでした。(第16回「織田子爵家有終の美」)

昭和22年撮影の空中写真を見ると、邸宅は全焼してなくなっており、東京山の手空襲で被害を受けたとみられます。

市谷薬王寺町付近、昭和21年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M200-6〔部分〕) の画像。
【市谷薬王寺町付近、昭和21年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M200-6〔部分〕)黒く見えるのが空襲から残った部分で、白っぽいところは焼失地域。画面右下が旧陸軍省、中央付近の丁字路上が織田子爵邸跡。外苑東通沿いと児玉坂より南は、ほぼ焼失しているのがわかります。】

そして、このあと世田谷区代田に移ったのではないでしょうか。

織田家が離れてからは、邸宅の跡地は住宅地となり、現代に至っています。

牛込柳町

それでは帰路につきましょう。

織田子爵邸跡地から外苑東通りを北に向かうと、緩やかな下り坂となっています。

これを300mほど進むと、東西に走る大久保通との市谷柳町交差点に出てきました。

交差点の東と北に、都営大江戸線牛込柳町駅の入り口がありますので、ここで今回の散策は終了です。

じつは、牛込柳町はすり鉢状のくぼ地になって入り場所で、空襲の被害も少なく、隠れ家的お店やどこか懐かしい風景や印象深い坂道が多いところです。

もし歩き足りない方がおられたら、ちょっと散策してみてはいかがでしょうか。

この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。

また、文中では敬称を略させていただいております。

引用文献など:

「明治東京全図」明治9年(1876)

『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市区調査会、1912

『東京市及接続郡部地籍地図』東京市区調査会、1912

『東京の坂道』石川悌二(新人物往来社、1971)

『日本近代教育史事典』日本近代教育史事典編集委員会編(平凡社、1971)

『新宿の散歩道』芳賀善次郎(三交社、1972)

『角川日本地名大辞典 13東京都』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)

「児玉源太郎」「児玉秀雄」「三島由紀夫」「吉岡彌生」「陸軍士官学校」「陸軍省」『国史大辞典』国史大辞典編集委員会(吉川弘文館、1979~1997)

東京女子医科大学Webサイト、国立公文書館アジア歴史資料センターWebサイト、「近代日本人の肖像」国立国会図書館Webサイト

新宿区設置の案内板、東京女子薬科大学設置の案内板

参考文献:

『江戸・東京 歴史の散歩道2 千代田区・新宿区・文京区』街と暮らし社編(町と暮らし社、2000)

1 個のコメント

  • 織田家天童藩の波乱に富んだ歴史はいかがだったでしょうか?
    さて、いままで大名家と大名華族の歴史をお届けしてきましたが、諸般の事情により、今回をもっていったん休止とさせていただきます。
    かわりに、東京の小学校の歴史をお届けしますので、こちらもお楽しみください。
    最後になりましたが、今後ともトコトコ鳥蔵をよろしくお願い申し上げます。

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