運動会の歴史 意外と知らない地域の一大イベント

秋の青空の下、毎年10月10日頃になると日本各地で運動会がひらかれて子供たちの歓声が響き渡る、というのが秋の定番イメージでした。

しかし近年は、学校行事の日程調整や暑さ対策などで春から初夏に運動会を開く学校も増えています。

今回はそんな運動会の歴史をたどってみましょう。

運動会のはじめに みんなでラジオ体操する画像
【運動会のはじめに みんなでラジオ体操しています。】

日本で最初の運動会

日本で最初の運動会は、明治7年(1874)に築地の海軍兵学寮で開催された「競闘遊戯会」であるとされています。

「競闘遊戯表」(明治7年(1874)国立公文書館デジタルアーカイブ)の画像。
【「競闘遊戯表」明治7年(1874)国立公文書館デジタルアーカイブ 
日本最古の学校運動会、「兵学寮等生徒競闘興行」のプログラムです。】

イギリス人教師の指導のもと、150ヤード競争、300ヤード競争、走り幅跳び、高跳び、ボール投げ、竿跳びなど18種目が実施して運動能力を競い合いました。

種目ごとに手提げ鞄、ステッキ、ナイフなどの賞品が出たそうで、参加者からは好評だったようです。

ちなみに、この大会の名称は、アスレチックスポーツを翻訳したもので、同名の大会は明治9年(1876)にも開催されています。

海軍兵学寮での運動会は継続しませんでしたが、居留地ではアスレチックスポーツが盛んに行われていたことが『ジャパン・パンチ』の記事からわかります。

「秋季陸上大運動会(明治42年)」(『乃木院長記念録』学習院輔仁会編(三光堂、1914)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「秋季陸上大運動会(明治42年)」(『乃木院長記念録』学習院輔仁会編(三光堂、1914)国立国会図書館デジタルコレクション)】

明治時代はじめの運動会

明治11年(1878)に札幌農学校で行われた運動会(当時の呼称は「力芸会」)では、二人三脚、障害物競走、食菓競走(現在のパン喰い競走)など、後に運動会の代表的種目になるプログラムが早くも登場しています。

明治16年(1882)6月に東京大学の大学予備門と法・文・理の三学部が合同で運動会を開催しました。

この運動会を指導したのはイギリス人教師ウィリアム・ストレンジで、彼は日本で最初のスポーツ指導書を執筆刊行するなど、日本のスポーツ草創期に大きな業績を残した人物です。

明治16年の運動会は、運動器具が揃わない中で開催されたので、ハンマー投げのハンマーは海軍造兵廠から借り受けたり、120ヤードハードルで使用するハードルは教室のベンチを転用するといった具合でした。

高等教育機関のエリートによる個人主体の競技としてはじまった運動会ですが,

早くも大衆化していきます。

体操術演習会

一方、明治14年(1881)に開催された東京・神田の体操伝習所によって開かれた「体操術演習会」も運動会が普及するきっかけとなっています。

この会は教育関係者に体操の普及と啓蒙を図る目的で開催されたものでした。

具体的には、体操伝習所や東京師範学校などから「体操術」の成績が優秀な生徒を集めて、軽体操(徒手体操と亜鈴・棍棒・球竿などの手具を使用した体操)の成果を披露するという内容でした。

さらに、明治17年(1883)の体操伝習所の春季大演習会では、これまでの軽体操に加えて綱引きや球技などの種目が行われています。

こうして個人競だけではなく団体競技をも重視した運動会は、体操伝習所の卒業生たちによって全国の小中学校や師範学校へと伝播して「体操大演習会」や「連合運動会」として広く開催されるようになっていきました。

この連合運動会というのは、学校単独で運動会を開催がまだ困難であったため、県や郡単位で師範学校や小中学校が連合して開催するスタイルのものです。

「昭和17(1942)年の寺地国民学校(運動会)」西新井 足立区の画像
【「昭和17(1942)年の寺地国民学校(運動会)」西新井 足立区】

ひろがる運動会

さらに、明治18年(1884)に初代文部大臣に就任した森有礼が体育による集団訓練を奨励した結果、明治19年(1885)発布の小学校令では、体操が正式に学校教育課程に組み込まれました。

このことをきっかけとして運動会は小学校でも開かれるようになり、全国的な広がりを見せるようになります。

また同年には東京大学で「赤門運動会」が組織されるなど、ますます運動会は盛んになっていきます。

一方で同じく明治19年に「小学校祝日大祭日儀式規定」が制定されると、運動会にも国体観念による臣民養成を意図して公式な学校行事として位置づけられることとなりました。

戦争と運動会

明治27年(1893)の日清戦争 の開戦、同年の文部省訓令「小学校における体育および衛生に関する件」などの背景もあって、運動会に軍事教練的な意味合いが求められていきます。

例えば、生徒を紅白の組に分けて運動会で競うのは、この時期にはじまっています。

「甲府市内小学校児童運動会」(『皇太子殿下行啓記念帖』柳正堂、大正2年 国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「甲府市内小学校児童運動会」『皇太子殿下行啓記念帖』(柳正堂、大正2年)国会図書館デジタルコレクション】

このような状況の中でも、地域の娯楽としての運動会は広く受け入れられ定着していきます。

はやくも明治20年代には全国の津々浦々の小学校で行われるようになりました。

例えば、『東京風俗志』には運動会が紹介されて競技種目が列挙されています。

その中にはスプーン競走などの余興的競技も多く挙げられ、現在とほとんど変わらない内容となった運動会は、地域の大切な行事にまで成長することになったのです。

「行進」(『創立五十年』東京女子高等師範学校附属高等女学校編(東京女子高等師範学校附属女学校、昭和7年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「行進」『創立五十年』東京女子高等師範学校附属高等女学校編(東京女子高等師範学校附属女学校、昭和7年)国立国会図書館デジタルコレクション】

地域の行事になった運動会

明治33年(1900)に学校に運動場を設置することが義務付けられると、全国的に小中学校でも運動会が行われるようになります。

綱引きなど、運動会に日本の伝統行事として行われてきたものが種目として取り込まれるようになったことで、小学校の運動会に住民も参加するようになっていきます。

この結果、運動会が地域をあげての一大イベント、学校と地域の共同のお祭りのような性格をもつようになりました。

こうして運動会には弁当を提げた地域住民が、校庭にゴザを敷いて種目に参加したり応援したりで秋の1日を楽しみむ、というスタイルが定着しました。

第10回明治神宮国民体育大会の様子 国立国会美術館デジタルコレクションの画像
【第10回明治神宮国民体育大会の様子 国立国会美術館デジタルコレクション】

国民体育大会の誕生

一方で、国家主導とでもいうべき運動会は、競技種目にバレーボールやバスケットボールなどの近代スポーツを取り入れて、ついに大正13年(1924)明治神宮競技会へと発展していきます。

国民の大運動会とでもいうべきものですが、敗戦による中断を挟んで昭和21年(1946)第一回国民体育大会(通称 国体)へとつながっていきます。

ちなみに、第一回は8月に兵庫県宝塚市で夏大会、11月に京阪神地域で秋大会、翌1月に八戸市で冬大会が開催されています。

「(第14回国民体育大会)会場となった体育館」昭和34年(1959)足立区の画像
【「(第14回国民体育大会)会場となった体育館」昭和34年(1959)足立区】

国体は、現在まで続く国民的体育行事としてすっかり定着しています。

職場や地域の運動会

時代を少し戻しまして。

昭和初期には学校ばかりでなく、職場や地域で運動会がひらかれるようになります。

これは、社員やその家族が一堂に会してレクリエーション的な競技を楽しみ、一体感を培う運動会は、経営家族主義といわれる日本の職場体質にとてもマッチするためでした。

「岸和田紡績津工場体操」(『工場鉱山の福利施設調査 第3』産業福利協会編(産業福利協会、昭和9年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「岸和田紡績津工場体操」『工場鉱山の福利施設調査 第3』産業福利協会編(産業福利協会、昭和9年)国立国会図書館デジタルコレクション】

この状況は戦後も続いて、大企業の運動会ともなると全国から参加者のある数千人規模のイベントになることも珍しくありませんでした。

オイルショックで一時期下火になるものの、「健康フェスティバル」などと名称を変えたりしながらバブル期まで行われています。

「大正14年行員運動会記念写真」水橋銀行の画像
【「大正14年行員運動会記念写真」『水橋銀行四十五年有終誌』水橋銀行 昭和16 国立国会図書館デジタルコレクション】

その後、職場や会社での運動会は急速に廃れましたが、近年、社員の一体感を培う日本的労務管理の一環として再評価する向きもあります。

現在の運動会

敗戦後の教育の民主化によって軍国的な性格のなくなった運動会は、平和的な行事としてそのまま受け継がれることとなりました。

競技内容に教育的なものを多くしたり、あるいは競技練習時の事故などにより、時々で内容を変化させつつも、子供たちが行事を通じて成長するという教育的目的はもちろん、子供たちの成長を地域のみんなで喜ぶ行事として、みんなに愛される存在となっています。

「中学校連合運動会」昭和29年足立区の画像
【「中学校連合運動会」昭和29年足立区。地域のみんなで運動会を楽しんでいます。】

東日本大震災やグローバリズムの深化によって地域の結びつきが弱まっている現在において、運動会の持つ力が改めて評価されています。

この記事をまとめるのに以下の文献を参考にしました。

石川弘義・津金澤總廣ほか編『大衆文化事典』1992弘文堂、湯本豪一『図説明治事物起源事典』1996柏書房、川添登・一番ケ瀬康子監修『生活学事典』1999 TBSブリタニカ、神崎宣武・白幡洋三郎・井上章一編『日本文化事典』2016丸善出版、木村茂光・安田常雄ほか編『日本生活史事典』2016吉川弘文館

3 件のコメント

  • トコトコ鳥蔵様

    大阪で小学校教師をしている本吉伸行と申します。
    大変、興味深く示唆に富んだ記事で一気に読んでしまいました。
    大変、勉強になりました。

    実は、私はTOSSと言う民間の教育団体に所属しています。
    このたび、
    体育の書籍をその団体で出すことになったのですが。

    このページの内容を一部 引用 参考させていただいてもよろしいでしょうか?
    1pほどの原稿で、参考文献として、このページのURLを掲載させていただこうと思っています。ご検討いただき、返信をいただければ、ありがたいです。
    何卒、よろしくお願い致します。

    • 本吉伸行様

      ご連絡ありがとうございます。
      いただいたコメント、とてもうれしく拝見しました。

      また、トコトコ鳥蔵から引用いただけること、大変光栄に思います。
      こちらこそ、よろしくお願い申し上げるところです。

      トコトコ鳥蔵で掲載している写真のほとんどが著作権フリーですので、こちらも活用をご検討してみてください。
      (写真提供者が個人のものだけ、改めて許可が必要です。)

      最後になりましたが、コロナ禍が続いております、本吉様におかれましても くれぐれもご自愛ください。

           トコトコ鳥蔵

  • トコトコ鳥蔵様

     返信、ありがとうございます。
     すごく、助かります。
     引用させていただきます。写真の活用も、紙面の都合を考えて、
     検討します。
     本当に、ありがとうございます。

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