4月16日・今日なんの日?

熊本地震本震のあった日

4月16日は、平成28年(2016)に熊本地震の本震があった日です。

それに先立つ4月14日21時26分には、熊本県熊本地方を震源とするマグニチュード6.5の地震(前震)が発生し、益城町で震度7を観測しました。

その28時間後の4月16日1時25分には、再び熊本県熊本地方を震源とするマグニチュード7.3の地震(本震)が発生し、西原村と益城町で震度7を観測します。

震度7の地震が連続して起こるのは、観測史上初めてのことでした。

熊本城址(『日本名勝旧蹟産業写真帖:国定教科書準拠 地』西田繁造 編(西田耕雲堂、明治45年)国立国会図書館デジタルコレクション) の画像。
【明治時代末の熊本城】

これらの地震では、熊本県を中心に甚大な被害が出ています。

地震の直接死者は50人、負傷者2,809人でしたが、長引いた避難生活の影響などで関連死218名です。

住宅の全壊8,667棟、半壊34,719棟、被害総額は推定で2,700億円を上回りました。

この地震による被害は、建物などへの被害にとどまらず、道路や鉄道などの交通インフラ、農業施設や観光施設にまで広がっています。

熊本地震で被災した熊本城、平成28年4月16日撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKU20168-C15-38〔部分〕)の画像。
【熊本地震直後の熊本城空中写真。石垣はあちこちで崩れて、塀は倒れ、画面中央右の天守は瓦がすべて崩落しています。】

なかでも象徴的だったのが文化財への被害です。

熊本城では石垣の崩落が50カ所、建造物で被害に遭ったのは重要文化財で13棟、復元建造物で20棟にも及びました。

そのほかにも、重要文化財である阿蘇神社楼門および拝殿が崩壊するなど、深刻な被害が出ています。

このように、深刻な被害を受けた熊本でしたが、地域の人々の努力によって復興の取り組みが継続中です。

文化財についても、現在も復元修理作業が精力的に進められて、「森の都」「水の都」とうたわれた美しい姿を取り戻しつつあります。

クラーク博士が札幌を去った日

4月16日は、明治10年(1877)にクラーク博士が札幌農学校を離任し、生徒たちとの別れにあの有名な言葉を残した日です。

それではまず、札幌農学校の歴史からみてみましょう。

明治5年(1872)東京・芝の増上寺の一角に開拓使仮学校が設立されました。

これは、北海道の開拓を進めるのに必要な人材を育成することを目的としたものでした。

東京芝山内開拓使仮学校(『北海道帝国大学沿革史:創基五十年記念』北海道帝国大学 編集・発行、1926 国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【東京・芝の開拓使仮学校】
札幌農学校開港当時の講堂および寄宿舎(『北海道帝国大学沿革史:創基五十年記念』北海道帝国大学 編集・発行、1926 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【札幌農学校開港当時の講堂および寄宿舎】

明治8年(1875)札幌の移転、札幌農学校と改称して開校します。

ここに教頭として赴任したのがアメリカ人のウィリアム・スミス・クラークでした。

クラークはマサチューセッツ農科大学の学長を務めていましたが、教え子の一人新島襄からの強い推薦を受けて赴任したのです。

札幌農学校教頭クラーク・スエ・ムヤリヰウ(『北海道帝国大学沿革史:創基五十年記念』北海道帝国大学 編集・発行、1926 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【ウィリアム・スミス・クラーク】

クラークは「お雇い外国人」で、明治9年(1876)7月に赴任、9か月後の明治10年(1877)4月16日に離任します。

クラークは、札幌農学校にマサチューセッツ農科大学のカリキュラムを移植しましたが、それはさまざまな科学を統合した英語を中心とした最先端のものでした。

こうして明治政府と開拓使は、欧米の大学に匹敵する教育内容を採用した札幌農学校に、日本で初めての学士の称号を授与する権限を与えたのです。

こうしてクラークの教育とキリスト教的道徳教育を受けた農学校1期生のなかから、のちに北海道帝国大学総長となる佐藤昌介や、教育者で国会議員となる渡瀬寅次郎などの有為な人材が生まれました。

佐藤昌介(『幕末・明治・大正回顧八十年史 第20輯』東洋文化協会 編集・発行、1937)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【佐藤昌介 岩手県花巻生れの農経済学者。のちに札幌農学校教授、北海道帝国大学初代学長となる。「北大育ての親」とも称されています。】

ここでクラークが離任する日に戻りましょう。

彼が離任するとき、在校生全員が宿舎の本陣前に見送りに集まりました。

名残を惜しむ生徒たち一人ひとりと握手した後に、ひらりと馬にまたがったクラークは、「Boys,be ambitious!」と最後の言葉をかけ、片手をあげて札幌を後にしたといいます。

その姿は非常に感動的で、その場にいた生徒や教職員たちの心を強く打ったのです。

クラーク帰国の際札幌本陣前に於ける勢揃(『北海道帝国大学沿革史:創基五十年記念』北海道帝国大学 編集・発行、1926 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【クラーク帰国の際札幌本陣前に於ける勢揃】
クラーク設計に係る家畜房、明治13年撮影(『北海道帝国大学沿革史:創基五十年記念』北海道帝国大学 編集・発行、1926 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【クラークが設計した家畜房、明治13年撮影】

さて、米国に戻ったクラークはどうなったのでしょうか。

事業に失敗するなど次々と不幸におそわれて、農学校を離任した10年後の1886年に、失意のうちに59歳で亡くなっています。

クラーク本人が不遇であったいっぽうで、彼が札幌農学校に残した教育は大きな成果を上げていきました。

クラークの教育を受け継いだ2代目教頭のウィリアム・ホイーラーの元からは2期生の新渡戸稲造(教育者、国際連盟事務局次長)、内村鑑三(宗教家、思想家)、広井勇(橋梁工学、東大教授)、宮部金吾(植物学者、北大教授)など、のちの日本を支える人材を輩出しています。

新渡戸稲造(「日本人の肖像」国立国会図書館)の画像。
【新渡戸稲造(「日本人の肖像」国立国会図書館) 岩手県出身の農業経済学者。東大教授、東京女子大学長などをつとめる。国際連盟事務次長として活躍し、日本文化を世界に広く紹介しました。】
内村鑑三(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【内村鑑三(出典:近代日本人の肖像) 群馬県生まれのキリスト教思想家・無教会主義の創始者。塚本虎二や矢内原忠雄など、各界で活躍する人材を育成しています。】
宮部金吾(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【宮部金吾(出典:近代日本人の肖像)東京出身。植物学の世界的権威。】
広井勇(『工学博士広井勇伝』故広井工学博士記念事業会 編(工事画報社、1930)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【広井勇の肖像とサイン 土木工学者で、札幌農学校教授、東大教授。震災予防調査会、港湾調査会などの委員としても活躍し、日本の土木界発展に尽くしました。】
志賀重昴(『志賀重昴全集 第9巻』志賀富士男(志賀重昴全集刊行会、1928)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【志賀重昴 愛知県出身の地理学者。三宅雪嶺と雑誌『日本人』を刊行。地理学思想の普及にも活躍し、衆議院議員を務めました。】

また、クラークの教育カリキュラムが行われていた5期までには、斎藤祥三郎(外交官)、佐久間信恭(教育家)、志賀重昴(地理学者)など多くの有用な人材が生まれました。

こうしたクラークの功績をたてて、大正15年(1926)には北海道大学構内に「W.S.クラーク胸像」が設立されました。

また、昭和51年(1976)年には、北海道大学創基100周年とアメリカ合衆国建国200周年を記念して、羊ヶ丘のクラーク像(「丘の上のクラーク」)が建立されています。

この右手を上げるポーズの銅像は、「遥か彼方にある永遠の真理」を指しており、これをめざして「少年よ、大志を抱け(Boys,Be Ambitious)」といまでも人々を励ましているのです。

札幌農学校演武場と北講堂、明治22年(『北海道帝国大学沿革史:創基五十年記念』北海道帝国大学 編集・発行、1926 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【明治22年撮影の札幌農学校演武場と北講堂】
札幌農学校(『日本之名勝』瀬川光行 編(史伝編纂所、明治33年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【明治末の札幌農学校、時計台と北講堂】

きのう(4月15日

明日(4月17日

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です