サンフランシスコ講和の日
4月28日は、1952年にサンフランシスコ講和条約が発効した日で、サンフランシスコ講和の日に定められています。
サンフランシスコ講和条約は、正式には対日平和条約といいます。
この条約は、第2次世界大戦の戦争状態を終わらせて、国交を回復するために、アメリカ、イギリスなど48か国との間で締結したものです。
昭和26年(1951)9月8日にアメリカ西海岸のサンフランシスコのオペラハウスで行われた平和会議で調印されて、昭和27年(1952)4月28日に発効しました。
条約は、前文と7カ条からなるもので、これにいくつかの国との議定書、国際条約への加入や戦死者の墳墓についての2つの単独宣言が付属しています。
条約調印
条約への署名時の写真をみると、全権の吉田茂首相がサインするなか、奥から順に一万田尚登、徳川宗敬、星川二郎、苫米地義三、池田勇人と全権委員団メンバーが並んで立ち、署名に立ち会っています。
全権委員団が各国代表の前で署名する象徴的な場面だったのがわかります。
日本全権委員団のメンバー
ここで全権委員団のメンバーについてみてみましょう。
吉田茂(よしだ しげる)は外交官から政治家に転身し、戦後日本の基本路線を定めた人物です。
一万田尚登(いちまだ じさと)は昭和21~29年(1946~54)まで8年にわたって日銀総裁を務め、金融界に君臨し、「一万田法王」と呼ばれた人物です。
じつは中世の豊後に君臨した大友家の分家で、中世からの名門・一万田家の当主でもありました。
徳川宗敬(とくがわ むねよし)は、「緑化の父」とも呼ばれる緑化運動の推進者で林業の専門家、この時は参議院議員に当選して緑風会議員総会議長の地位にあり、参議院代表として参加しています。
ちなみに、一橋徳川伯爵家当主で、戦前は貴族院副議長を務めていました。
星川二郎(ほしかわ じろう)は、弁護士出身の政治家で、犬養毅の秘書をしていた経歴を持つ人物で、自由党常任総務を務めており、衆議院の与党代表として選ばれたのでしょう。
第一次吉田内閣で商工大臣を務めるなど要職を歴任し、のちに衆議院議長になっています。
苫米地義三(とまべち ぎぞう)は、経済から政治家となった人物で、昭和21年(1946)衆議院議員、片山内閣では運輸省を務めた国民民主党の重鎮でした。
野党代表として選ばれたのでしょう。
池田勇人(いけだ はやと)は、大蔵官僚から政界入りし、吉田茂に重用去ら手人物で、のちに首相に就任、所得倍増計画や高度経済成長を打ち出したことで知られています。
当時は衆議院議員に初当選で蔵相を務めていて、政府代表として選ばれたのでした。
実はこのほかにも、サンフランシスコに来ていたものの、署名には立ち会っていない人物がいました。
それが片山哲元首相と浜田信三・広島市長です。
吉田は、調印にはできるだけ「超党派」の全権団にする希望を持っていましたので、野党の要望も受け入れてきました。
しかし、ソビエトをはじめとする社会主義の国々を含めた全面講和を要望する勢力を抱えた日本社会党が反対したことから、あくまでも随員の立場で二人を帯同したのです。
調印から発効まで
サンフランシスコ講和条約の調印から発効までのおよそ半年間にさまざまなことが起こります。
まず、調印の翌日、日米安全保障条約に全権の吉田首相が署名、こちらも講和条約と同日の4月28日に発効しました。
これを受けて、10月24日には社会党が浅沼稲次郎・河上丈太郎を中心とする右派と、鈴木茂三郎らの左派に分裂。
また、翌昭和27年(1952)2月には米軍の駐留を定めた日米行政協定に調印しています。
さらに、講和条約と日米安保が発効した4月28日をもって極東委員会・対日理事会(GHQ)が廃止されて、名実ともに日本は独立を回復したのです。
いっぽう、昭和26年(1951)9月10日、黒澤明監督『羅生門』がカンヌ映画祭で最高賞の金獅子賞を受賞、その知らせは敗戦に打ちひしがれていた日本人に希望と自信を与えていました。
こうした中での日本の独立回復と国際社会への復帰は、将来への明るい展望をもたらしたといえるでしょう。
(この文章は、『国士大辞典』『日本史大事典』の関連項目と、『近代日本総合年表』(第三版)を参考に執筆しました。)
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