前回まで朝鮮出兵での五島家をみてきました。
長い戦争が終わり、ようやく帰国した五島家に、天下分け目の大戦が迫ります。
そこで今回は、五島家の関ケ原をみてみましょう。
五島家出陣
朝鮮出兵から戻ってまもない慶長5年(1600)8月に、徳川家康を打倒すべく挙兵した石田三成らからの出兵要請を受けて、玄雅は手勢を率いて上京します。
そして、長門国赤間関まで進んだところで、松浦鎮信、大村喜前、有馬晴信、五島玄雅の肥前の大名が集まって今後の方針を話し合うことになりました。
このメンバーは、先にみた朝鮮出兵の際の小西行長軍を構成する大名たちであることを覚えておられるでしょうか。(第12回「文禄の役」参照)
もちろん、小西行長は西軍の中心メンバーですので、西軍としては小西行長の部隊を含めて朝鮮出兵時と同様の規模での参戦を見込んでいたのでしょう。
しかし、大村喜前は東軍参加の意向、松浦鎮信はすでに嫡男久信が西軍に参加、五島玄雅は豊臣姓を賜ったこともあって西軍参加と目されていて、対応はバラバラに分かれる様相になっていたのです。
ところが、会合で大村喜前の意見を入れて松浦鎮信が東軍参加を決めると、こんどは五島玄雅を説得し、ついに五島玄雅の軍は長門国赤間関から領国に引き返して東軍についたのでした。
関ケ原の小西行長
ところで、あてにしていた肥前勢を欠いた小西軍はどうなったのでしょうか。
慶長5年(1600)9月15日、小西行長は兵6,000を率いて関ケ原に参戦、合戦では兵を前隊と本隊の2つに分けて寺谷川に面した天満山北方の丘を背にして布陣しました。
《井伊家伝来関ケ原合戦図屏風は、こちらで詳細図が楽しめます!→彦根市立彦根城博物館Webサイト》
合戦がはじまると、織田有楽斎父子、古田織部、猪子一時、佐久間安正兄弟、船越景直の七将が攻めかかってきます。
その後、寺沢広高、戸川達安の隊が攻撃に加わって、小西軍の前軍は押されて混乱しました。
それをみた行長は、前隊を3町ほど後退させたうえで、本隊からの「一大銃射」で撃退を試みるも失敗し、寺沢をはじめとする東軍諸隊が小西軍本隊に攻めかかると支えられず、早々に敗退してしまったのです。
その後、石田、宇喜多、大谷ら西軍の諸隊が「抗拒激烈」して勝敗が決しかねない状況となりましたが、小早川秀秋軍の寝返りによって西軍は瓦解したのはみなさんもご存じでしょう。(以上『日本戦史 関原役』)
小西行長死す
敗戦後、伊吹山に逃れた行長でしたが、ほどなく捕縛されます。
そして、市中引き回しの後、京の六条河原で石田三成、安国寺恵瓊とともに斬首されました。
朝鮮出兵で大いに活躍した小西行長ですが、関ケ原では精彩を欠くように感じませんか?
ひょっとすると、肥前勢が味方していたならば、小西軍は大活躍して勝敗が変わったのかもしれません。
五島軍が引き返した理由
ところで、松浦鎮信、大村喜前、有馬晴信、五島玄雅の四大名は、どうして今後の方針を話し合ったのでしょうか。
じつはこの会談、松浦鎮信が仕掛けたものだったのです。
また、隣国の大国・鍋島家は西軍についていましたし、四大名が東上する場合は、西軍大将の毛利輝元の領国を通る必要があります。
ここでちょっと思い出してみてください、松浦鎮信は平壌の戦いでは明軍の計略を見抜くなど、きわめて知略に優れた武将でした。(第12回「文禄の役」参照)
四大名はいずれも小国ですので、まとまった動きをした方が影響力を増すことがわかったうえで、最終的に鍋島家が戦わず撤退すること、あるいは東軍の徳川家康が勝利することさえ見抜いていたのかもしれません。
参加した大名家はいずれも朝鮮出兵の戦費などで疲弊していましたから、大きな戦費の負担は避けたいところでもあります。
こうした状況を冷静に分析したうえで、松浦鎮信は最適な決断を下したのでしょう。
また五島玄雅も、この状況で落ち着いて判断することができる優れた武将であったことがわかります。
こうして、西軍に味方しないことで、五島家は本領安堵されて、従来通り一万五千五百三十石を領することになったのです。(以上『全大名家事典』『三百藩藩主人名事典』)
五島家がここで生き残れたのも、あるいは名将・松浦鎮信の知略のたまものなのかもしれませんね。
今回は五島家の関ケ原での行動をみてきました。
次回は、五島玄雅が抱いた海外通商による領国発展の夢のゆくえをみてみましょう。
コメントを残す