五島盛繁・盛成の藩政改革と有川物産会所 ㉟

前回は、伊能忠敬の五島訪問についてみてきました。

次回は、五島盛繁・盛成の二代にわたる藩政改革の行方をみてみましょう。

五島盛繁(もりしげ・1791~1865)

文化6年に父・盛運の急逝に伴い、15歳の盛繁が襲封し、五島家十代(宇久家二十九代)当主となりました。

このころ、中国・朝鮮・琉球船の漂着はますます増加し、新たな対策に迫られます。

そこで、まずは正確に海岸線を把握する必要があると考え、文化9年(1809)6月に目付藤原平吉を測量方用係に任命して海岸線の測量を行いました。

幕府も異国船漂着の増加という事態を重く見て、文化10年(1810)に伊能忠敬を五島に派遣したところ、藩も藩船五社丸を使って緻密に海岸線を測量させたのは前回に見たところです。

長崎の中国船(1840年ころ)メトロポリタン美術館
【長崎の中国船(1840年ころ)メトロポリタン美術館】

藩校育英館

さらに盛繁は、藩財政のひっ迫を打開するために藩政改革を断行して、能力主義の役席体制を導入します。

また、父の施策を受け継いで紙漉き、皮細工、鋳物、養蚕行を導入して殖産興業に努めました。

また、安永9年(1780)に先代藩主盛運が石田陣屋内に開設した藩校至善堂を、文政4年(1821)には規模を拡大して、名称を育英館に改称します。

さらには嘉永2年(1849)には城下小松原へと移転・拡充するとともに、学問の奨励を武士以外にまで広げたのです。

学業優秀のものについては、農工商のものでも一代に限り士族に取り立てるなどして人材発掘に努めました。

そのときの校生は、寄宿生約30人、通学生約80人を数えています。

五島盛成(Wikipediaより20210904ダウンロード)の画像。
【五島盛成(Wikipediaより) 歴代藩主の中でも屈指の教養人だったといわれています。】

五島盛成(もりあきら・1816~1890)

こうして藩政改革を行った盛繁は、その途上の文政13年(1830=天保元年)11月に隠居して盛成が襲封します。

盛成は先代藩主盛繁の藩政改革を継続して殖産興業に努めました。

しかしこのころ、五島藩の江戸・大坂での借金がおよそ銀六百貫にのぼり、そのために大坂の商業資本家たちから次第に見放されつつあったのです。

有川産物会所

そこで、天保4年(1833)藤原友衛の献策を入れて、有川産物会所の設置に踏み切ります。

それは、有川に鯨・綿・塩・酒・苧を販売する大問屋を設けて販売させて利益をあげようというもので、今風にいうと地域商社をつくろうというものでしょうか。

天保5年(1834)の開設当初はなかなかうまくいきませんでしたが、天保9年(1838)には銀55貫余りの利益を出すまでになり、成功するかにみえました。

「千絵の海 五島鯨突」葛飾北斎、シカゴ美術館の画像。
【「千絵の海 五島鯨突」葛飾北斎、シカゴ美術館】

山田蘇作事件

しかし、会計方として採用された山田蘇作が、かつて中国との密貿易を図って逃亡した指名手配中の罪人・長崎唐通事彭城清左衛門であることが発覚しました。

すると、長崎奉行から五島藩の責任が問われる事態となって、このために有川産物会所の経営が頓挫してしまいます。

藩政改革の失敗

ここに盛成の殖産興業政策は成功することなく潰えてしまったのです。

その結果、天保8年(1837)の借財は1万4,000両ちかくにまで達したのですが、藩は領内に徹底した倹約を強制するしか手がなくなってしまいました。

五島藩財政再建の最後に希望ともいえる有川物産が、山田蘇作事件で失敗に終わります。

こうして、藩財政がいよいよ崩壊の危機を迎える中で、藩主盛成は隠居し、家督を嫡男・盛德に譲ることになりました。

危機の中で藩主となった盛德は、幕末の動乱をどのように超えてゆくのでしょうか。

次回は異国船警護のために臨戦態勢に入る五島藩をみていきたいと思います。

《今回の内容は、『物語藩史』『三百藩藩主人名事典』『日本地名大辞典』『藩校大事典』に依拠して執筆しました。》

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です