《最寄り駅:東京メトロ日比谷線・都営大江戸線 六本木駅》
安政2年、五島藩は麻布六本木に上屋敷、白金今里村に拝領下屋敷、麻布永坂に借地、白金村に抱屋敷を持っていました。(『江戸幕藩大名家事典』)
じつは、上屋敷の南隣にあたる地続きの「岡仁庵屋敷」を借地して抱屋敷としており、両者は一体で運用されていたのです。
屋敷跡は、現在の地名表記で港区六本木5丁目16番地に当たる場所、そこで今回は、この上屋敷と抱屋敷の周辺を歩いてみることにしましょう。
ちなみに、五島藩上屋敷と五島子爵家邸宅については、当時の呼称がわかりませんでしたので、それぞれ当時一般的だった町名や地域名を冠して六本木上屋敷、鳥居坂邸と呼ぶことにします。
六本木交差点
東京メトロ日比谷線六本木駅3番出口から出ると、目の前は六本木通で、その上を首都高3号渋谷線が走っているのがみえてきました。
そこにはテレビなどでよく六本木の象徴として使われる「ROPPONNGI」の文字が記されています。
都営大江戸線六本木駅出発の方は、4番出口から出て六本木通を渡るか、あるいは5番出口から出て外苑東通を渡るかで出発地の六本木交差点に出てきます。
五島藩六本木上屋敷への道
それでは、外苑東通の南側を、東の東京タワー方向へ歩きましょう。
300mほどで六本木5丁目交差点に到着しました。
この交差点の角が五島藩上屋敷の北西端、ここからが五島藩上屋敷跡地です。
さらに、麻布鳥居坂を南に進みましょう。
ちなみにここは、昭和6~16年ころ、信濃国飯田藩堀子爵家の堀秀孝が邸宅を構えています。(「堀子爵家の終焉」参照)
麻布小学校跡地
左手に麻布区民共同スペース・麻布保育園が見えてきました。
ここがかつての麻布小学校、あの大スター、片岡千恵蔵と榎本健一(エノケン)の母校。
現在は麻布台1丁目に移っていますので、第50回「五島子爵家麻布邸を歩く・後編」であらためて行ってみることにしましょう。
かなめ石
このあたりの道のまん中に、「かなめ石」とよばれる径一尺ほどの石があったといいます。
掘り出そうとしましたが、実は大きさがわからないほどの巨石でしたので、あきらめてそのままにしておいたところ、この石に塩を手向けて祈ると足の病が治るというので願をかける風習があったそうです。
明治に入って、交通の邪魔になるからと爆破して石の上部を吹き飛ばしたそうですが、いまでも石の本体はここに埋まっているのかもしれません。(『東京の坂道』)
そして、この付近が五島子爵家鳥居坂邸の南東隅、上屋敷よりもひと回り小さくなっていたのでした。
鳥居坂界隈
ちなみに、鳥居坂の通りを挟んだ場所が、東洋英和女学院小学部、その南隣が1883年設立の鳥居教会で、あたりには広大な屋敷の跡地が博物館などにそのまま使われています。
再び鳥居坂通の東側に戻って、麻布保育園の南に見える麻布地区総合支所・麻布区民センターのなかほどまでが、五島藩上屋敷でした。
切絵図をみると、屋敷の門は鳥居坂につくられていますので、保育園と区民センターの境あたりが正門だったのでしょうか。
あたりは公的機関が並ぶ地区、細道に入っても古い遺構は確認できません。
麻生区民センター南の道に進みましょう。
ここはすでに上屋敷から外れていますが、行き止まりあたりが抱屋敷南西隅に当たっています。
フィリピン大使館の前を通り過ぎて進むと、麻布テラスとありました。
この麻布テラスの北端が、抱屋敷南端に当たっています。
於多福坂
道なりに南に曲がると、石垣に囲まれた趣のある坂道に出てきました。
これが「於多福坂」、坂が途中でいったん凹んでからまた下っている形が、顔のまん中が低いお多福のお面のようなので坂名となったといいます。(『東京の坂道』)
坂道の風情を味わいながら進むと、交差点を挟んで立派な学校の裏手に出てきました。
これが東洋英和女学院。
ということは、朝ドラ「花子とアン」で、「おとうやん」が花子に会いに来ていた坂道が、この於多福坂だったのです。
なんだかこの坂の味わいが増したようで、ちょっと楽しくなりました。
永坂
於多福坂の途中で交差点を東に曲がって100mほど進むと、大きな通りに出てきました。
これが麻布通で、通りが南に上る長い坂となっているのですが、これが名高き永坂です。
永坂といえば、正岡子規が「蕎麦屋出て 永坂上る 寒さかな」と詠んだように、「信州更科蕎麦処布屋太兵衛」で有名ですが、蕎麦屋があったのは坂の下。(『東京文学地名辞典』『東京の坂道』)
この辺りを先の歌を詠みながら子規が上ったのかと思うと、ちょっと嬉しくなってきますね。
ここまでで散策はちょうど半分です。
次回は、ちょっと休憩しながら五島藩六本木上屋敷と五島子爵家鳥居坂邸についておさらいしてみしましょう。
コメントを残す