前回は五島藩白金下屋敷とその跡地について、歴史をみてきました。
今回は、五島藩白金下屋敷跡地の南半分に建てられた、旧公衆衛生院をみてみましょう。
旧公衆衛生院「ゆかしの杜」とは
まずはじめに、旧公衆衛生院とは何なのでしょうか。
旧公衆衛生院は、鉄骨・鉄筋コンクリート造で、地下1階地上6階の中央に4階の塔屋が設けられた巨大な施設です。
平成14年(2002)に国立保健医療科学院に統合されて和光市に移転しました。
そこで、港区が平成21年(2009)に建物と敷地を取得して大規模に改修工事を行て、平成30年(2018)に「ゆかしの杜」として開館したものです。
この「ゆかしの杜」は、港区立郷土歴史博物館を中心に、有料老人ホームなどが入る複合施設で、建物本体の見学はなんと無料!びっくりですね。
建築としての旧公衆衛生院
この建物は、昭和13年(1938)に、アメリカ合衆国ロックフェラー財団の支援と寄附によって、日本国民の保健衛生に関する調査研究および公衆衛生の普及活動を行うために、日本国が設立した「公衆衛生院」のために建設されたものです。
施設内の説明版によると、この建物と隣接する伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)はセットでつくられた施設でした。
ともに、スクラッチタイルで覆われた外観やコンセプトが共通していて見ごたえがあると思いきや、木が茂りすぎて見えにくいのが残念。
内田ゴシック
設計者は東京大学建築科教授・内田祥三(よしかず)で、内田は東京大学本郷キャンパスの安田講堂を設計したことで知られています。
内田のデザインは連続するアーチなどの特徴的外観を持つことから、「内田ゴシック」と呼ばれていましたが、この旧公衆衛生院もその典型といってよいでしょう。
一見しただけで強烈なインパクトに圧倒されるだけでなく、無駄な装飾を抑えているにもかかわらず華麗な印象を受けるところは私も大好きです。
施工は大倉土木株式会社、現在の大成建設で、まさに「地図に残る仕事」ですね。
旧公衆衛生院の魅力
この建物がすごいのは、外観のみならず内部の装飾までもがよく残されているところ。
港区は改修に際してこの建物の歴史的価値を評価して、建物の意匠を保存しつつ耐震化やバリアフリー化を行うというすばらしい方針を立てました。
おかげで、建設当時の様子を知ることができるうえに見学しやすいという古建築ファンには感涙ものの神対応となっています。
エントランス
入る前に、正面からの圧倒的力強さを堪能したら、エントランスの連続アーチが醸し出す優雅な雰囲気を味わいつつ、建物の中に入ってみましょう。
エントランスからはやくも廊下の向こうに中央ホールが見えています。
メインホールは2階までの吹き抜け空間、床や壁に使われた石材が効果的、光の演出も相まって、高級感あふれる顔法的な空間です。
私のすぐ後に入ってきた子供たちは、一目見るなり感嘆の声をあげていました。
改修時につけられた照明もナイスアシスト、雰囲気を盛り上げる素晴らしいい演出が効いていて、この建物にふさわしい荘厳な空間を作り出しています。
旧公衆衛生院を歩く
それでは、建物の中をみていきましょう。
最後に、あらためて公衆衛生院についてみてみましょう。
公衆衛生院の歴史
先ほど見たように、公衆衛生院はアメリカ合衆国ロックフェラー財団が日本政府に日本政府に寄贈したものです。
大正12年(1923)に発生した関東大震災からの復興事業の一つとして設立が計画されて、既存の国立伝染病研究所および附属病院と同じ敷地に建てられることとなりました。
昭和12年(1937)に施設が完成し、翌昭和13年(1938)に開設、厚生省所管となります。
昭和15年(1940)厚生省所管の栄養研究所と合併して厚生科学研究所となり、翌昭和16年(1941)には文部省所管の体育研究所の一部と合併。
さらに昭和17年(1942)厚生省研究所に統合されますが、敗戦とともに昭和21年(1946)には公衆衛生院に戻っています。
この施設、どういうものなのかわかりにくいのですが、あえていうならば現在の大学院大学のさきがけといったところでしょうか。
当初にロックフェラー財団が思い描いていたように、日本の公衆衛生の発展に大きく寄与するとともに、多くの研究者を輩出しました。
その後、平成14年(2002)に組織改編により移転廃止されたのは前にみたところです。
旧公衆衛生院は噂にたがわぬ、まさに圧巻の名建築でした。
五島藩白金下屋敷の遺構は全く残っていせんでしたが、人々の集う特別な場所として愛される様子を見ていると、なんだかうれしくなってきたのでした。
今回は、五島家下屋敷跡に建てられた歴史的建造物の旧公衆衛生院についてみてきました。
次回は、五島子爵家が麻布我善坊町に構えた麻布邸跡を訪ねてみましょう。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。
また、文中では敬称を略させていただいております。
引用文献など:
「白金絵図」戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永7年)
「明治東京全図」市原正秀原著・朝倉寛校訂(東京書肆、明治9年)
『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市区調査会、1912
『東京市及接続郡部地籍地図』東京市区調査会、1912
『芝区誌』東京市芝区役所 編集・発行、1938
『東京の坂道 -生きている江戸の歴史-』石川悌二(新人物往来社、1971)
『江戸幕藩大名家事典』中巻、小川恭一編(原書房、1992)
聖心女学院Webサイト、東京大学医科学研究所Webサイト
港区設置の案内板
参考文献:
『東京の坂道』石川悌二(新人物往来社、1971)
「五島藩」森山恒雄『新編 物語藩史』第十一巻、児玉幸多・北島正元監修(新人物往来社、1975)
『角川日本地名大辞典 13東京都』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)
「五島藩」森山恒雄『三百藩家臣人名事典』第七巻、家臣人名事典編纂委員会編(新人物往来社、1989)
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