化学者高峰譲吉は、タカジアスターゼ・アドレナリンの発見者として知られる世界的化学者で、大正11年(1922)7月22日に亡くなりました。
そこで、譲吉の生涯を振り返り、基礎科学研究を軽視する現在の日本について考えてみましょう。
化学者への道
高峰譲吉(たかみね じょうきち)は、安政元年11月3日(1854年12月21日)に加賀藩典医の高峰元陸(のちの精一)の長男として越中国高岡、現在の富山県高岡市で生まれました。
藩校明倫館で学んだあと、慶応元年(1865)、譲吉12歳の時に選抜されて長崎へ留学します。
その後、京都の安達兵学塾で語学を学び、大坂の適塾と七尾語学所で学びました。
明治維新後は明治3年(1870)に開校した大阪医学校に入学、近くに開設された舎密局で、ハラタマやリッテルの化学講義を聴いて、化学を専攻する決意を固めます。
明治5年(1872)に上京して工部省工学寮に入学し、ダイバースについて応用科学を専攻しました。
明治12年(1879)工部大学校応用化学科、現在の東京大学工学部を卒業すると、翌明治13年(1880)からイギリスへ留学し、グラスゴー・アンダーソニアン大学で工業化学および電気化学を修得し、明治16年(1883)に帰国します。
いっぽうで、留学中にニューカッスル・リバプール・マンチェスターなどの工場で、ソーダ製造や人造肥料製造などを見学するとともに実習したのです。
帰国後は農商務省技師に任じられて、日本固有の化学工業を起こすことを目指します。
工務省勧工課に勤務して、伝統的な日本産物について化学的生産を研究し、和紙や製藍、清酒醸造などを研究し、改良したのです。
明治17年(1884)、アメリカ南部のルイジアナ州ニューオリンズ市で開催された万国工業博覧会に出席し、出品されていたリン酸肥料に着目します。
そして、渋沢栄一ら財界有力者を説得して明治20年(1887)に日本で初めての東京人造肥料会社を深川釜屋堀に設立して、リン酸肥料の製造を開始しました。
また、明治19年(1886)に専売特許局が設立されると次長に推され、特許制度の研究をおこなうとともに日本発明協会の設立に貢献します。
タカジアスターゼの発見
いっぽうで譲吉は、日本酒の米麹の醱酵力に着目し、明治23年(1890)には元麹の改良に成功してウィスキー製法を改良する高峰元麴法を開発し、特許を取得しました。
これにアメリカのウィスキー業者が注目して譲吉をアメリカに招いたのです。
この年のうちに招聘に応じて譲吉は渡米し、高峰ファーメント会社を設立しました。
こうしてウィスキーの製造に応用して成功を収めましたが、モルト業者から猛反発を受けて、研究所が放火されて全焼してしまいます。
ところで、譲吉は渡米後の1892年(明治25年)に、麦芽ではなく麴カビ菌の力でアルコール度の高いウィスキーの製造を試みる中で、麹カビ菌の中に強力な菌株を発見します。
この菌から抽出した酵素は、これまで最良だった麦芽酵素の二倍の力を持ち、でんぷん細胞を破壊する消化能力も高かったのです。
譲吉はこれをタカジアスターゼと命名し、黄白色の粉末錠剤化してアメリカで特許を取得しました。
パークデビス社と提携して商品化をすすめ、強力消化剤タカジアスターゼとして販売すると、世界的な医薬品となりました。
日本では、明治32年(1899)に塩原又策が販売権を獲得すると、三共商店、のちの三共医薬品製造株式会社を設立して試験販売を開始します。
明治35年には来日した譲吉に直談判してタカジアスターゼの日本における一手販売権を手に入れて大々的に売り出し、大成功を収めたのです。
このタカジアスターゼは、酵素化学の先駆的業績として高く評価されるとともに、この販売で譲吉は莫大な富を得ています。
アドレナリンの発見
また、パークデビス社の顧問として、副腎皮質の有効成分を上中啓三の協力を得て、結晶単離に成功、これをアドレナリンと命名したのです。
この発見はホルモン化学のはじまりとされ、新しい分野を切り開いた重要な業績といえるでしょう。
この業績により、明治45年(1912)に帝国学士院賞を受賞し、翌年には帝国学士院会員となっています。
また、日本にも国民科学研究所を設立すれば、軍艦をつくるよりも価値があるとその必要性を説いて回り、櫻井錠二らと「国民科学研究所」構想を発表して、理化学研究所設立のきっかけをつくったのです。
大正11年(1921)7月22日、ニューヨークで死去、69歳でした。
理化学研究所と高峰譲吉
譲吉の重要な業績の一つが理化学研究所(理研)の設立に尽力したことです。
譲吉らの運動で大正6年(1917)に財団法人理化学研究所として設立された理研は、三代目所長に大河内正敏が就任してから、自由な制度から独創的な研究を数多く生み出しました。
さらに、理研は研究成果を次々と事業化し、「理研コンツェルン」と呼ばれる産業団に発展。
また、湯川秀樹や朝永振一郎の二人のノーベル賞受賞者をはじめ、数多くの若手研究者を育成しています。
子どもたちのヒーロー・化学者高峰譲吉
そして、私が注目したいのは、譲吉が子供たちの憧れとなったことです。
当時、細菌学者の野口英世と並び称せられ、学問によって世界的業績を上げた日本人として盛んに顕彰されたのでした。
野口が研究の途上で倒れた研究者であるのに対し、譲吉は研究だけでなく事業でも大成功した点が独自の魅力となったのです。
また、帝国学士院会員となってからは多額の寄付を行って、後進の育成に努めた点も重視されていました。
高峰譲吉のように、研究と事業を両立したヒーロー像は、理研所長の大河内正敏や、味の素の池田菊苗へと受け継がれていくのです。
そして、このようなヒーローが不在なことが、科学技術を軽視する現代日本の姿を象徴的に表しているのかもしれません。
(この文章では、敬称を略させていただきました。
また、『国史大辞典』『明治時代史大辞典』『日本史大事典』の関連項目を参考に執筆しています。)
きのう(7月21日)
明日(7月23日)
コメントを残す