前回見たように鎌倉公方は滅亡してしまいましたが、その血脈は受け継がれて、よみがえることとなります。
そこで今回は、関東の足利家が復活する様子を見てみることにしましょう。
足利成氏と堀越公方
鎌倉公方を滅亡させた将軍義教が、嘉吉元年(1441)嘉吉の乱で暗殺されると、幕府の混乱にともなって持氏の遺児成氏が鎌倉公方に就任します。
これは関東管領と鎌倉公方を支持する伝統的豪族の対立を緩和することを狙ってのことでした。
ところが、対立は解消されるどころか激化、享徳3年(1454)成氏が対立する関東管領上杉憲忠を殺害すると享徳の乱が勃発したのです。
さらに、康正元年(1455)幕府から成氏追討軍として今川範忠が派遣されると、成氏は退却を余儀なくされて、追討軍が鎌倉を制圧しまいました。
こうして成氏は下総国古河に逃れて、古河公方を称するようになります。
いっぽう長禄2年(1458)幕府は、新たに足利政知を鎌倉公方に任じ、鎌倉に下向させたのです。
ところが、成氏を支持する勢力がいまだに根強く、政知は鎌倉に入れず伊豆堀越に留まる事となって、堀越公方と呼ばれました。
この政知が延徳3年(1491)に死去すると、北条早雲が堀越公方の館を急襲して嗣子足利茶々丸を滅ぼしたことで、鎌倉公方は名実ともに消滅します。
ここに戦国時代が幕を開けることは、みなさんご存じかもしれません。
古河公方誕生
康正元年(1455)足利成氏が室町幕府から成氏追討軍として今川範忠が鎌倉に入ると古河に逃れ、古河公方が誕生したのは先に見たところです。
この古河公方、成氏のあとも政氏、高基、晴氏、義氏と五代にわたって続くことになりました。
古河に成氏を追い出した関東管領上杉氏でしたが、こんどは山内上杉家と扇谷上杉家の上杉家内部抗争がはじまり、ついに長享元年(1487)長享の乱に発展します。
さらに、扇谷上杉家が家臣・太田道灌を暗殺すると、そのスキをついて長享2年(1488)山内上杉家上杉顕定が扇谷上杉家への攻撃を開始しました。
すると、劣勢となった扇谷上杉家上杉定正が古河公方・足利成氏に支援を求めるというややこしい状況に。
いちどは古河公方の支援を得て反転攻勢し優位に立った扇谷上杉家でしたが、明応3年(1494)に当主の定正が陣中で病死すると形勢が危うくなり、扇谷上杉家の家督を継いだ上杉朝良が、なんと今度は駿河の今川家に救援を求めたのです。
「パートナーがいなくなったから」といったところか、今度は山内上杉顕定が古河公方を継いだ足利政氏を頼ることになります。
その後両上杉家が和睦すると、山内上杉家と古河公方が強く結びついていったんは関東の秩序が再構築されるかに見合えました。
小弓公方
ところが今度は、古河公方足利政氏と嫡男高基との不和が原因となって内紛が始まってしまいます。
もはや独力では権威を保てなくなった古河公方ですが、では誰と組むのかで対立したということでしょう。
これが永正3年(1506)にはじまる永正の乱ですが、この戦乱が完全に終息する前に山内上杉家でも内紛が発生して、さらに混乱が拡大してしまいました。
最終的に高基が勝利して古河公方につきますが、今度はその弟の義明が下総国小弓城に入って政氏の後継を名乗り分立、小弓公方とよばれるようになります。
国府台合戦
この小弓公方を支援していた里見・真里谷両家で家督争いが発生すると、天文6年(1537)河越城を手中に入れて南関東一帯に勢力を拡張していた北条氏綱の力を借りて古河公方を継いだ晴氏が小弓公方を攻撃したのです。
ついに、天文7年(1538)下総国国府台で古河公方・北条軍が小弓公方の義明を破って小弓公方は滅亡しました。
これによって古河公方の権威が回復するかと思いきや、今度は北条家の介入を受けることになります。
河越合戦
北条家が氏綱から氏康へと代替わりしたことをとらえて山内上杉家と扇谷上杉家が連合、さらに駿河の今川家も加わって、北条家包囲戦を開始します。
天文15年(1546)山内上杉・扇谷上杉連合軍が河越城を包囲すると、北条家の制止を振り切って古河公方もこれに加わってしまったのです。
この河越合戦で北条氏康は大勝利をおさめ、扇谷上杉家は滅亡、大きなダメージを受けた山内上杉顕定は越後に逃れました。
こうして完全に孤立した古河公方晴氏は、北条家の縁者である義氏に家督を譲らざる得なくなったのは自然の流れといえるでしょう。
上杉謙信の関東侵攻
ようやく北条家の下で統一された下に見えた関東に、新たな強敵が現われました。
永禄3年(1560)北条氏康が隠居して氏政が家督を継いだスキをついて、関東管領職にある上杉憲政を奉じて長尾景虎、のちの上杉謙信が関東に侵攻を開始したのです。
これに、北条氏は古河公方足利義氏を奉じて対抗、関東全土を巻き込んだ大戦乱に発展してしまったのです。
そのさなか、長尾景虎は山内上杉家から関東管領職を譲りうけて上杉謙信と改名します。
こうして、関東管領上杉家と、古河公方を奉じる北条家は、関東支配をめぐって小田原城を中心に、激しい攻防を繰り返すところとなりました。
古河公方滅亡
永禄3年(1560)桶狭間で今川義元が織田信長に討たれたうえに、北条家と上杉家が関東で戦うスキをついて、甲斐の武田信玄は大きくその勢力を伸ばして上杉・北条両家に脅威となってきます。
この武田信玄の動向を警戒して永禄12年(1569)に上杉謙信と北条氏康の間に同盟が成立、ここで北条家の関東支配がほぼ確定したのでした。
また、この同盟が成立したときに、謙信が義氏を古河公方認めたことで、もはや義氏の古河入りを妨げるものはありません。
いままで、義氏は下総国の関宿と佐貫、そして鎌倉と館を移してさまよっていましたが、ここでようやく古河城に入ってその地位を確定させることができたのです。
しかし、関東管領を激しく争った上杉家と北条家が同盟したことでその関心も低下、もはや古河公方の権威も必要とされなくなっていました。
こうしたなかで、天正11年(1583)足利義氏に嗣子がなく、古河公方は断絶してしまうのです。
ついに断絶してしまった古河公方、しかし名門足利家はこれしきの事では滅亡しません。
次回は足利家の復活と喜連川藩の誕生を見てみましょう。
(今回は、『国史大辞典』関連項目と『地名大辞典』栃木県・茨木県の関連項目を元に執筆しています。)
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