坂本龍馬来島【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編㊲】

前回、「最後の海城」福田城を築いて海岸防備を強化する五島藩をみてきました。

そんななか、慶応2年(1866)に坂本龍馬が来島します。

そこで今回は、龍馬来島の謎に迫っていきましょう。

ワイル・ウエフ号遭難事故

「坂本龍馬手帳摘要」にこのような記述がみられます。

「丙寅五月二日ワイウエフ破船五島鹽屋崎ニ於テ死者十二人」とある後に、「船将 黒木小太郎/士官 池 蔵太/水夫頭 虎吉、熊吉/水夫 浅吉、徳次郎、仲次郎、勇藏、常吉、貞次郎、加藏 〆十二人 

生存者三人/下等士官 浦田運次郎/水夫 一太郎、三平 〆三人

 右死セル者朝暁ヨリ日出ニ至リテツクス」(原文は名前を併記しています)

この記載は、慶応2年(1866)5月2日に、起こった海難事故を記録したものです。

この事故の経緯をみてみましょう。

「坂本龍馬肖像」(『土佐の勤王』徳富蘇峰(民友社、1929)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「坂本龍馬肖像」『土佐の勤王』徳富蘇峰(民友社、1929)国立国会図書館デジタルコレクション】

事故の経緯

ワイウエフ号(ワイル・ウエフ号)は、薩摩藩の援助を得て亀山社中が購入した木造小型帆船で練習船として使用を予定していました。

慶応2年(1866)亀山社中がユニオン号で聴衆から薩摩に兵糧を運ぶ際に、ユニオン号が曳航して長崎を出発していたのです。

この航海の目的は、ワイル・ウエフ号に新しい船名をつける命名式を、船購入を援助してくれた薩摩藩のもとで行うためでした。

ところが、長崎を出港して間もなく激しい嵐に会ってしまい、衝突防止のために曳航していたロープを切断せざるを得なくなったのです。

切り離して間もなく、ワイエフ号は中通島の東海上で遭難して鹽屋崎(現在の潮合崎)沖で座礁して転覆し、記載にあるように多くの船員が死亡したのです。

龍馬の来島

この事件の知らせを聞いた龍馬は、遭難地に近い江ノ川(現在の新上五島町江ノ浜郷)に駆けつけて、村役に慰霊碑建立を依頼したと地元で伝えられています。(新上五島町観光物産協会Webサイト)

『維新土佐勤王史』『隽傑坂本竜馬』は、6月4日に桜島丸で鹿児島から長州に向かう途中に五島に立ち寄って、遭難者の氏名を記した「溺死合霊之墓」と題した石碑を建て、弔慰の法要を営んだと記しています。

【グーグルストリートビューは、潮合崎(新上五島町)。合掌する龍馬像と碑が建てられています。】

その後の龍馬

さて、慶応2年(1866)は龍馬にとって多事多難な年でした。

1月には薩長同盟が締結されてこれに立ち会い、直後に伏見寺田屋で幕府役人に襲撃されて重傷を負っています。

このため、3月から4月には治療のために妻のお龍を連れて鹿児島に旅行、これが日本最初の新婚旅行ともいわれてご存じの方も多いのではないでしょうか。

その後、前述したように長崎経由で龍馬は下関に向かった後、第二次長州征伐では長州に味方して参戦しています。

さらに慶応3年(1867)には亀山社中を海援隊と改称し、大政奉還の実現に向けて奔走しましたが、11月15日に京都・近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺されてしまいました。

五島藩、臨戦態勢へ

龍馬が五島を訪れたころ、島はどのような様子だったのでしょうか。

嘉永6年(1853)長崎へロシアのプチャーチンをはじめ諸外国の艦船が入港したことで緊急事態となって、警備番役一手体制、つまり一番手として総数562人、大筒16丁などの軍備を整えました。

この兵員のなかには藩士や足軽が中心とはいえ、「浮勢」として職人や町人70人を加えて編成された、身分と立場を超えた混成メンバーだったのです。

さらに、石田城建設中の安政元年(1854)4月1日にはロシア船が崎山鼻に突如現れて、領内は騒然となりました。

このような事態でしたので、安政元年(1854)には幕府に参勤を免除してもらいます。

その上で、船15艘(補助船も含めると51艘)、兵数959人という防備部隊を編成しました。

そのうち侍は総数254人に過ぎず、そのほかは足軽や雑人が165人で、そこには紺屋や様々な職人たちも含まれていたといいます。

五島藩は、まさに領内の総力を挙げた重装備の部隊編成をとったのです。

また、石田城守備に250人が交代で詰めるまさに臨戦態勢を作り上げました。

農村に対しても、郷士や町人、百姓を組織して防御体制を整えたのです。

はたして海軍に詳しい龍馬の目に、全島あげての防衛体制で異様な雰囲気にある五島藩のようすは、どのように映ったのでしょうか。

今回は坂本龍馬来島と、そのころの五島藩をみてきました。

次回は、明治維新での五島藩をみていきましょう。

(今回、坂本龍馬に関しては『維新土佐勤王史』『坂本竜馬関係文書』『隽傑坂本竜馬』に、五島藩については『物語藩史』『海の国の記憶』に依拠しています。)

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