前回、十二代藩主・親義が養嗣子の親広に藩主の座を譲るまでを見てきました。
今回は、大政奉還直後の混乱するなかで十三代藩主となった親広の活躍を見ていきたいと思います。
堀親広(ほり ちかひろ・1849~1899)
堀家の一族の堀親因の子として嘉永2年(1849)江戸藩邸で生まれ、名を三之亟といいました。
慶応元年(1865)に親義の養嗣子となり、親義の父で先代藩主・親寚の6女原子(もとこ)を妻に迎えて親広と名を改め、明治元年(慶応4年・1868)に養父・親義の隠居を受けて家督を継いで十二代藩主となりました。
そしてすぐに上京して新政府から一万七千石を下賜されています。
この後親広は、新政府と反対勢力との戦争に次々と参加することになりました。
ちなみに、これからの記事で日付は基本的に旧暦、新暦の場合は但し書きを入れていますのでご注意を。
甲府出兵
親広は、4月に新政府からの命を受けて、自ら藩兵を率いて甲府へ出兵していますが、「堀氏家譜」および『太政官日誌 第廿八』によると、詳細は以下の通りです。
閏4月11日「松平肥後の反逆の徒」の先手が信州に侵入したので飯田藩に出兵要請があり、翌12日銃卒一隊が出立。
下諏訪で諸藩と合流、尾張藩田宮如雲が、高遠より賊の元請西藩主・林昌之助の軍勢が甲州黒駒村に屯集しているとの報告があり、25日に金沢駅に進軍します。
その後、林軍が北駿河幸観村に退去したとの知らせがあったので、5月4日甲府に進軍した後に解散命令がでて、5月12日に撤収、29日飯田に帰還しました。
越後出兵
今度は、5月に東山道総督軍監岩村精一郎より松代藩とともに錦旗守護の命を受けて藩兵百七名を率いて、飯坂方面に出陣しました。(「堀氏家譜」)
敵軍の一部が信州から越後へ進撃しているとの報を受けての出陣で、結局飯山戦争には間に合いませんでしたが、幕臣陸軍の歩兵指図頭取だった古屋佐久左衛門が率いる衝鋒隊を追って越後に進軍、越後与板での戦闘に参加しています。(『慶應四年戊辰秋七月 太政官日誌 第四十四』)
閏四月26日には雪峠で激しい戦闘があり、5月3日には尾張藩から薬師嶺で山上の敵から攻撃を受けているとの連絡を受けて松代藩と飯田藩が救援に向かいました。
ここで両藩が左右に分かれて敵を挟撃し、激戦の末に敵軍を撃退しています。(「飯田藩届書写 追録」『慶應四年戊辰秋七月 太政官日誌 第四十七』)
さらに、5月9日三佛生村に進軍、千曲川を隔てての激しい銃撃戦の後、浦村に進撃、5月19日青島村で戦闘、夜襲の準備をしていた敵を撃退して物資を分捕しました。
6月8日早朝6時、盛立峠に敵の長岡への援軍と戦闘、猛攻を受け、長州藩が正面、飯田藩は敵の側面に回り込んで攻撃、司令官補・辻元孫吉と杉本愿蔵隊の矢澤常太郎戦死、夕方七ツまで戦闘した末、ついに敵を撃退しています。(「飯田藩届書写」『慶應四年戊辰夏六月 太政官日誌 第卅七』)
会津転戦
7月29日に長岡城が再度陥落したのち、8月中旬に越後が官軍支配に入ると、今度は会津戦争への転戦が命じられました。
9月24日飯田から増援部隊が来たので、奥州八木沢村に止宿。
9月25日西谷村まで進軍、この侵攻路は松本藩と上田藩にまかせて、飯田藩本隊に合流。
9月24日大芦村で官軍不利の情報で、軍曹淵川忠之介の命令で下中津川村に進軍。
屋敷村に進んで陣地構築(台場二ヶ所と表記)するも、大芦村の敵軍が敗走の報を受けて転進、翌日早朝に鳥井峠まで進軍して台場を構築しているところに、敵襲あり。
2時間ほど砲戦(銃撃戦)ののち、敵敗走。(以上「堀氏家譜」)
そして、10月18日に「奥州高田郷辺村民一揆して越後片門に押し寄せた」との報に、一小隊を越後に派遣。(「岩村田藩届書写三通」『明治紀元 戊辰冬十月 太政官日誌 第九十九』)
11月6日(新暦9月22日)、会津若松城が開城して会津戦争が終結、秋田戦争も収束して戊辰戦争は官軍の勝利で幕を下ろしました。
11月17日、越後新発田を発し飯田に帰還、これにより維新前後の混乱は収束しています。
その後、明治2年5月2日、軍功により五千両を下賜されました。
親広の藩政
飯田に凱旋した親広は、今度は藩政に注力します。
ちなみに、但し書きを添えたものをのぞいて、ここからの日付はすべて新暦です。
帰還して間もない明治元年11月、米価騰貴で苦しむ家臣のために、朝廷より紙幣を借り受け家中に貸与するという達書を出しています。
また、明治元年(1868)に文学所と武芸場を飯田藩役所の地に集めて学校を新建し、役職を整えて漢学および諸武芸を教えて人材の育成を目指しました。
文学所は、寛政7年(1795)に儒者の邸内に設けられた家塾形式の藩校で、読書場と呼んでいたものです。(『近世藩制・藩校大事典』)
明治2年(1869)5月、薩長土肥が版籍奉還を申し出てより、飯田藩もこれにならい、三月に建白し、6月23日、親広は飯田藩知事となりましたが、藩政へ取り組む姿勢に変化はありません。
二分金騒動(チャラ金騒動)
そして飯田で頻発してきた一揆にも立ち向かいます。
明治2年(1869)7月には二分金騒動が起こりました。
これは、財政難にあった薩摩藩が大量に作ったものなど、偽の二分金が飯田にすさまじい量流入したことで巻き起こった騒動で、完全なとばっちりです。
明治3年(1870)7月25日までに親広は偽二分金を新二分金に引き換えて、領民を救済します。
このような膨大な資金を親広はどのように用意したのでしょうか?
明治3年閏10月(旧暦)に、藩から外郭の並木を取払い開墾することを願い出て聴許されているのですが、じつは主たる目的は開墾ではなく、枡形(桜町)のいろは杉など城外の樹木売り払った資金で基金を創設したのです。
こうして、親広はこれまでのような臨時徴収に頼らない安定した藩の経営を目指したのでしょう。
また、明治2年(1869)には、飯田近隣で一揆が起こりそうになるたびに、藩士を派遣して説諭し、一揆を未然に防ぐことに成功しています。
その他にも明治2年(1869)7月13日、大風雨で大きな被害が出ると、7月26日に被害者に夫々米施して救援したのです。
こうしたことから、藩主となった親広は、家臣や領民の声を聴く藩政を目指していたと考えてよいでしょう。
飯田城廃城
いっぽう、武田信玄の時代からの歴史を誇る飯田城は飯田藩の象徴でしたが、先ほど見た二分金騒動の影響で、明治3年(1870)閏10月(旧暦)に、藩から外郭の並木を取払い開墾することを願い出て聴許された結果、大きく姿を変えていまました。
その後、飯田城は廃城となり、破棄の手続きが進められていきます。
明治4年(1871)9月2日お堀埋め立てはじまり、9月7日には追手門番が廃止されて、9月8日飯田藩城内外の門塀等入札払下げ、ついに建物は払い下げ取り壊されました。
そしてついに、明治5年(1872)2月11日、山県狂介に飯田城を明け渡しています。
城跡のうち本丸は長姫神社境内となり、桜丸門(赤門)および水の手曲輪の石垣、外濠の一部が現存。不浄門は経蔵寺山門、八間門、脇坂門は民家の門等として移築されました。(「廃城一覧」)
飯田藩消滅
明治4年(1871)7月に廃藩置県が断行される飯田藩が消滅して、飯田県が誕生します。
親広は明治4年8月16日得替二百年の祝賀会を催し、9月11日藩士一同と別れの酒肴を交わしました。
その後、旧藩主の東京滞在が命じられていましたので、9月23日に飯田に別れを告げて上京したのです。
ちなみに、明治4年(1871)11月20日下伊那郡全域が筑摩県に統合された後、明治9年(1876)8月に筑摩県は長野県に編入されています。
また、廃藩よりこの年に明治元年(1868)に親広つくった藩校も、廃校となっています。
東京の親広
飯田を離れ上京した親広は、第五大区二小区向柳原町一丁目十四番地の旧飯田藩上屋敷に邸宅を構えて堀家の家政整備に着手します。(『華族名鑑』西村隼太郎編(西村組出版局)明治8年3月1875)
じつは廃藩置県時には飯田藩下屋敷だった麻布新堀端邸の4,900坪が下賜されたのですが、これを向柳原にある飯田藩上屋敷3,000坪との引替を願い出ています。
これは、上屋敷よりも下屋敷の方が狭いのですが、当時は浅草が繁華なことを考えてのことだったのでしょう。
そして明治4年(1871)10月3日に願い出たとおり麻生新堀端賜邸上地となり、向柳原飯田藩旧邸宅引き替て下賜されたのです。(第9回「飯田藩下屋敷跡を歩く」参照)
また、新政府から支給された家禄を使って資産形成に努めた結果、後に堀家は資産家華族の仲間入りを果たすまでになりました
地域への貢献も忘れていません。
地域の学校へ献金を行った結果、明治6年(1873)12月8日に御賞木盃一個下賜されています。
この地域の学校支援はこの後も次期当主・親篤の時代まで続けていて、堀家はのちに「浅草区民に師父の如き尊敬を受け」るまでになりました。(『立身致富信用公録 第6編』)(第6回「堀子爵家の栄光と転落」参照)
こうして着々と堀家の家政を整えたですが、自身の身の振り方は意外なものでした。
なんと、警察官僚になったのです。
警視庁は明治7年(1874)、鍛冶橋門内の旧津山藩邸に発足したばかり。
ちなみにこの警視庁は、現在の東京都を管轄する警察組織とはちがって、内務省直属の組織でした。(『麹町区史』)
おそらく、北越戦争での活躍を見知った人物がとりなしたのではないでしょうか。
こうして、明治8年(1875)7月28日警視庁十五等に補され出仕、早くも9月22日権少警部に昇進しています。
権少警部とは、21中14番目の階級、入庁時は15等大警部ですから、現在の警部クラスでしょうか。(「警察制度」『国史大辞典』)
ところが、このことがきっかけとなって、先代親義と諍いが起こってしまいます。
親義にすると、当時はまだ低い身分とみなされていた警察に、華族の者が一官吏として勤めるのは家格の面で問題があると感じたのでしょう。
親義とその父親 は寺社奉行を務めていますから、なおさらのことと思ったに違いありません。
さらに、当時は西国を中心に士族の反乱が続発していて、この鎮圧に警視庁が出向くとの憶測も流れていたことが輪をかけてしまいました。
実際に、警視庁の創始者で大警視の川路利良は、西南の役に際して自ら警察隊を率いて出兵し、田原坂などの激戦に参加しています。
さらに、戊辰戦争に参加した旧桑名藩藩主・松平定敬はかつての藩士たちを引き連れて警察隊に入り、西郷軍と戦っているのです。
おそれく親義からすれば、かつての飯田藩士たちが巻き込まれるのを避けたかったことでしょう。
しかし逆に、北越戦争で豊富な実戦経験を持つ親広が重宝されて活躍できたであろうと私は思うのですが、みなさんはどう思いますか?
親広隠居
結局、親広は明治9年(1876)12月28日に病のためと称して退官を願い出て許されています。(以上「堀氏家譜」)
その後も養父親義と折り合いが悪く、ついに明治10年(1877)9月に突然隠居してしまいました。
もうすっかり堀家が嫌になったようで、明治10年(1877)10月2日に離籍までしたのちに、明治32年(1899)7月30日、51歳で死去しています。
ここで多くの書籍が親義の養子であった親篤が家督を継ぐとしていますが、忘れてはいけない大切な話が隠されています。
じつは、親広が突然隠居した時に家督を継いだのは親義なのです。
そして親広の一人娘・喜子(よしこ)を自身の養子に迎えたあと、谷田部藩細川興貫二男の貫通と結婚させて、名を親篤と改めてから明治11年(1878)10月5日に家督を継がせました。(『平成新修旧華族家系大成』)
わずか一年で煩雑な継承手続きを終わらせるスピーディーな対応、あの親義とは思えません。
親義自身は子に恵まれなかったこともありますが、堀家を親広の娘に継がせたのは、彼がそれだけ親広の功績を認めていたからなのではないでしょうか。
そして親広の娘・喜子の夫・親篤が家督を継ぐのを見届けた親義は、明治13年(1880)5月29日に信州島田村で静かに息を引き取ったのです。
ここまで明治を迎えた堀家についてみてきました。
次回は、近代の荒波に翻弄される堀家の戦後までを見ていくことにしましょう。
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