前回は、大逆事件の舞台の一つとなった熊野について、その中心人物と目された大石誠之助を中心にみてきました。
そこで今回は、近代日本のターニングポイントとなった大逆事件についてみてみましょう。
大逆事件とは
大逆事件は、明治政府が本来は関係のない三つの「事件」を結びつけて「大逆事件」という一大陰謀事件を作り上げて処罰した事件です。
この三つの「事件」のはじめは明科事件です。
明治43年(1910)5月25日、宮下太吉、菅野スガ、新村忠雄、古河力作が天皇を暗殺するための爆弾製造を企てたとして長野県で拘引されました。
三つの「事件」で唯一実態があるのが明科事件で、これが大逆事件の発端となりました。
二つ目は、皇太子暗殺計画。
これは、明治42年(1909)5月に内山愚童が放言した「皇太子をやっつける」という「革命談」を聞いた武田久平、三浦安太郎、岡林寅松、小松丑治が皇太子暗殺を計画したとして拘引された「事件」です。
三つ目は、天皇暗殺計画あるいは革命計画。
これは、明治41年(1908)11月に誠之助が幸徳秋水のもとを訪れたことを、「爆発物と兇器とをもって暴力革命を企て、大逆をおかすべく」幸徳と誠之助のほか、森近運平、松尾卯一太が謀議したとするものでした。
この「事件」は誠之助が帰路の大阪でそのことを話したことで、先の武田と三浦、岡本頴一郎が、同様に新宮で成石平四郎、高木顕明、峰尾節堂、崎久保誓一が拘引されます。
さらに、松尾が熊本に帰郷して、新美卯一郎、佐々木道元、飛松弥太郎も検挙されました。
そのうえ、ほとんど言いがかりに近い事由で、奥宮健之、成石勘三郎、新田融、新村善兵衛、坂本清馬も検挙されたのです。
大逆事件の捏造
明科事件こそ稚拙とはいえ実態があったのに対して、あとの二つは全くの事実無根で、政府により捏造された事件であったというのですから驚愕するほかありません。
さらに天皇暗殺計画の事実が明らかになると、瞬く間に捜査は全国に波及して、事件とは何の関係もない数千名もの社会主義者や無政府主義者、さらにはその同調者や同情者も検挙されて徹底的な調査を受けたのです。
新宮での検挙
紀南でも、明治43年(1910)6月3日、大石誠之助、西村伊作、沖野岩三郎らが「大逆事件」(幸徳事件)に関連して家宅捜索を受け、田辺の牟婁新報社も捜索を受けました。
そして6月6日、大石が拘引されて東京に護送されたのを手はじめに、成石平四郎、崎久保誓一、峰尾節堂、成石勘三郎も相次いで東京へ護送されたのです。
その後、明治41年(1908)11月に大石が上京した時に、幸徳・大石・森近運平らが大逆の謀議を行い、さらにそれぞれが同志と謀議したという事由で、大石をはじめ、成石兄弟・高木・峰尾・崎久保の6人が紀州グループとされて、逮捕・起訴されました。
判決
事件の取り調べはたくみな誘導尋問や恐喝、拷問によって政府の描いた「大逆」に結びつけられて、検事聴取書と予審調書に仕立てられます。
これをもとに、明治43年(1910)11月1日には幸徳秋水ら26名を被告に仕立て上げた予審意見書を大審院に提出、11月9日に公判が決定されました。
12月1日に公判が開始されると、12月29日には最終弁論が終了するまで、大審院は一人の証人喚問も許すことなく、完全に非公開で裁判を行ったのです。
翌明治44年(1911)1月18日に言い渡された判決は、24名を大逆罪で全員死刑、2名を有期懲役という全員有罪という恐るべきものでした。
刑の執行
その後、判決の出た翌日の1月19日には、「天皇の恩赦」として12名が死刑から無期懲役に減刑となりました。
いっぽう、はやくも1月24日には幸徳秋水や大石誠之助ら11名に死刑が執行され、翌25日には菅野スガにも死刑が執行されたのです。
判決言い渡しからわずか1週間で処刑を執行するという当時としてもあり得ない刑の執行は、事件自体を政府が捏造し、これを隠ぺいするために強行したとみてよいでしょう。
減刑された12名も、5名が獄中死する苛酷さで、最後となった坂本清馬がようやく出獄できたのは、昭和9年(1934)11月のことでした。
ここまで大逆事件の経緯を追ってきました。
そこで次回では、大逆事件が新宮に残した爪痕をみてみましょう。
コメントを残す