前回まで新宮水野家9代当主水野忠央ついてみてきました。
そこで今回は、忠央から家督を継いだ10代当主水野忠幹の時代をみてみましょう。
水野忠幹(みずの ただもと・1835~1902)
忠幹は、和歌山藩の家老として、14代茂承に仕えました。
天保6年(1835)新宮水野家9代忠央の四男として江戸で生まれ、幼名は真竜麿、また藤四郎を称しました。
その人柄は、資質沈勇英毅、忠直恪勤人皆その徳に服したと伝えられています。
18歳で従五位下大炊頭に叙任されて、父の忠央とともに和歌山藩政に参画。
万延元年(1860)6月4日に父が隠居謹慎を命じられたために家督を相続し、付家老として和歌山藩14代藩主茂承の政務を輔弼しました。
天誅組の変
文久3年(1863)8月17日、浪士約50人が大和国五条代官所を襲撃します。
これは、ペリー来航以来強まる対外危機のなかで、同年8月13日に攘夷成功祈願のため孝明天皇による大和行幸が決定されたのを機に、その先駆けとなるべく挙兵したものでした。
挙兵を行ったのは、土佐国の吉村寅太郎、備前国の藤本鉄石、三河国刈谷の松本奎堂ら激派とよばれた急進尊皇攘夷派を中心に結成された天誅組(天忠組)で、元侍従の中山忠光を戴いていました。
吉村らは8月14日に京都を出発して、大坂・河内を経て五条に進み、河内の庄屋たちから支援を受けたのです。
襲撃では代官鈴木源内を殺害し、翌日には近隣の幕府領を朝廷領としたうえ、当年分の年貢半減を布告しました。
しかし、八月十八日の政変により状況は一変し、孝明天皇の行幸も中止となってしまいます。
その後、十津川郷士1,000人余を参加させて勢力を増大して、8月26日に高取城を攻撃するものの撃退されました。
そして、幕府は郡山藩をはじめとする大和国の諸藩と、彦根・津・和歌山藩に天誅組の追討を命じます。
ここにきて十津川郷士が離反して総崩れとなり、残った天誅組は、吉野から河内への脱出を図りました。
ところが、その途中の大和国吉野郡鷲家口(わしかぐち)で待ち構えた諸藩軍に敗北します。
藤本・吉村らは戦死、奎堂は自刃し、中山忠光ら7名が長州藩大坂藩邸に逃げ込んで、9月24日(あるいは25日)に天誅組は壊滅しました。
水野忠幹と和歌山藩
この時、幕府の命を受けた和歌山藩では、およそ3,900人もの大軍勢を大和国に送ります。
ところが、装備が旧式なうえに士気が低く、ほとんど役に立ちません。
そのいっぽうで、津田出の弟・津田正臣が率いる農民兵や和歌浦法福寺の僧・北畠道龍が率いる法福寺隊が、大いに活躍したのです。
また、鎮圧にあたった幕府の大軍に追われた天誅組の一部は、ゲリラ戦を展開しながら十津川方面に退却しました。
そこで和歌山藩は、伊勢の藩領や有田・日高郡の警備を強化すると同時に、付家老の安藤直裕と水野忠幹を領地に還らせて警戒にあたらせます。
そこで新宮に戻った忠幹は、新宮の手勢を率いて熊野本宮まで進軍しました。
こうした中、天誅組の残党から離脱した十数人は、熊野方面への逃亡を図り南下しますが、警戒が厳重であるために、小又川・龍神に分屯していた和歌山藩軍に自首します。
こうして天誅組の変は収束しましたが、紀州では領内における藩の威信が揺らぐ結果となってしまったのです。
次回は、幕末のターニングポイントとなった長州征伐への道程をみてみましょう。
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