前回は柳川藩浅草末下屋敷跡をぐるっと歩いてきました。
今回は、かつての屋敷の守り神・太郎稲荷神社(太郎稲荷大明神)についてみてみましょう。
太郎稲荷神社
民家の隙間にある、こじんまりした鳥居をくぐると、幟の並ぶ細い参道がつづきます。
これを抜けると、ちょっとした空間があって、覆屋の下には石造の台座に鎮座する祠がみえました。
ここが太郎稲荷神社、敷地内にはいくつかの碑が建てられています。
また、覆屋壁面に町内旅行の写真が額で飾られてたりして、町民からの厚い信仰を感じずにはおれません。
流行り神
この太郎稲荷神社を文献でみてみましょう。
『浅草区誌』下巻「太郎稲荷神社」の項には、『飛鳥川』を引用しつつ述べていますので、要約してみてみましょう。
「光月町にあり。昔時繁昌の社なりしかども、今殆ど旧態を存ぜず」
「文化頃、浅草新堀の立花家下屋敷の鎮守太郎稲荷の流行神は、人々が群参して新堀に人通りが絶えることがなかった。
門内より本社までおよそ十町あまりの左右は奉納された幟が垣をなすありさまで、神前には賽銭や供物が山のようだった。
大いに信仰されたので、目の見えない人がはじめて見えるようになったり、足の不自由な人が高い山を登れるようになった。
日増しに参詣者が増えて、ついに屋敷の裏手にある畑では夜籠りまではじまって、「太郎神、太郎神」と称名すると神社の垣の外まで霊狐が現れた。
このような盛況は長くは続かず、二・三年の間は午の日は参詣客でにぎわったが、今では参る人もほとんどいない。」
さらに、これはいわゆる流行神であるとしたうえで、「境内も老樹繁茂せしを伝ふるも、今面影を存せず」と結んでいます。
これらの記載からみると、社殿は現在地よりも新堀に近い東側にあったのかもしれません。
遷座
「明治東京全図」でみると、太郎稲荷は現在の場所より東に境内があるとともに、南に長く参道が伸びる様子が確認できます。
山道が直角に入れ曲がるところをみると、社殿が現在の南向きではなく、西向きであったのかもしれません。
さらに、明治40年代に下屋敷跡部分の街区が細分化されたようで、この時に社地は屋敷跡の南西部、かつての参道部分へと移されました。
さらに、関東大震災後の区画整理で、現在の屋敷跡北西部へと移されたのです。
こうして、柳川藩下屋敷の鎮守であった太郎稲荷神社は、その社地が江戸時代から何度か遷っているものの、光月町内にとどまって、現在まで鎮守として町を見守ってきました。
正門跡
太郎稲荷神社を出て、再び西に向かうと、斜めに道が横切る交差点に出てきます。
じつは、今立っている交差点辺りが「今戸 箕輪 浅草絵図」によると、このあたりが柳川藩浅草下屋敷の正門があった場所。
北東-南西方向に走る斜めの道が、下屋敷の西端にあたるところです。
ここを右に折れて、北へ進むと、北西角に小学校がある小さな交差点に出てきましたが、ここが下屋敷の北西隅、ここから東に約250m、南に約150mが下屋敷の範囲です。
道をさらに北へ進むと、金美館通りに出てきました。
この一風変わった通りの名は、かつて通り沿いにあった映画館「金美館」にちなんだものといいます。
金美館通りを左折して西に進むと、間もなく台東区立大正学校の前に出てきました。
次回は、学校前の大正公園で休憩しながら、柳川藩下屋敷についてみてみましょう。
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