小笠原家久松町邸跡を歩く 後編【越前国勝山藩(福井県)47 】

前回は、浜町公園から、久松小学校、久松警察署と、勝山藩久松町上屋敷と小笠原家久松町邸の跡地を歩いてきました。

今回は、久松児童公園で休憩しながら勝山藩久松町上屋敷と小笠原家久松町邸の歴史をみてみましょう。

久松児童公園、北からの画像。
【久松児童公園、北から この公園は、かつての浜町川と、名高き浜町河岸の跡地です。】

勝山藩上屋敷の移転

幕末、勝山藩の上屋敷は大名小路にありました。

そして、安政2年(1855)の安政江戸地震でおおきな被害を受けて、その復興費用確保のために林毛川による藩政改革が頓挫したのは、馬場先上屋敷編にみたところです。

勝山藩上屋敷(「大名小路-神田橋内 内櫻田之図」〔部分〕景山致恭(尾張屋清七、嘉永2年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【勝山藩上屋敷「大名小路-神田橋内 内櫻田之図」〔部分〕景山致恭(尾張屋清七、嘉永2年)国立国会図書館デジタルコレクション】

そして勝山藩がようやく上屋敷を復興させた直後の慶応4年(1868)9月5日、新政府は藩邸の整理方針を発表し、その整理に着手しました。

『東京市史稿 市街編49』には、これにともなう勝山藩への通達が記されています。

これによると、「勝山藩小笠原家屋敷の馬場先内屋敷」は「牧野遠江守」久松町上屋敷に入れ替えとなりました。

これが現在の中央区久松町8・9番地と10番地の南半分にあたっています。

久松町付近(『神田浜町日本橋北之図』〔部分〕影山致恭(尾張屋清七、嘉永3年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【久松町付近『神田浜町日本橋北之図』〔部分〕影山致恭(尾張屋清七、嘉永3年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

ちなみに、「牧野遠江守」つまり信濃国小諸藩牧野家上屋敷は、いったん水道橋に移されるものの、「浜町松平伯耆守屋敷」つまり肥前国唐津藩小笠原家浜町上屋敷とふたたび移されたのです。

こうして勝山藩小笠原家上屋敷と小諸藩牧野家上屋敷は道向かいとなりました。

勝山小笠原子爵家久松町邸付近『明治東京全図』〔部分〕(明治9年、国立公文書館デジタルアーカイブ )の画像。
【勝山小笠原子爵家久松町邸付近『明治東京全図』〔部分〕明治9年、国立公文書館デジタルアーカイブ  虫食いがありますが「小笠原長育」の名がみえます。】

小笠原家久松町邸

そして明治4年(1871)に廃藩置県に伴って上京を命じられた長守は、日本橋区久松町31番地の旧勝山藩上屋敷の東半分を改めて下賜されて、そこに本邸を構えます。

これが現在の中央区久松町9番地と10番地の南半分に当たる場所でした。

このとき、広大な勝山藩小笠原家邸は、その西半分を囚獄司用地として上地されて、これがのちに警視庁用地となりました。

そして、警視庁第一方面第五分署が置かれましたが、これが現在の警視庁久松警察署です。

おそらく、久松町屋敷は新政府が選んだもので、小笠原家が住むことになったのは偶然なのですが、このことが後々大きな意味を持つことになりました。

「両国大火浅草橋 明治十四年一月二十六日大火」(『清親画帖』小林清親1878 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「両国大火浅草橋 明治十四年一月二十六日大火」『清親画帖』小林清親1878 国立国会図書館デジタルコレクション 久松町火事の一年後に日本橋区北部を襲った大火のようす。】

邸宅焼失

『新修日本橋区史』によると、明治13年(1880)2月4日午後11時30分、日本橋区橘町1丁目5番地から出火、折からの強風にあおられて、火は瞬く間に日本橋区北部一帯に広がりました。

ようやく火が鎮まったのは翌日の午前9時のこと。

延焼範囲は火元の橘町1~4丁目を手はじめに、若松町、村松町、久松町、浜町1~3丁目と、日本橋区の9ヶ町、焼失戸数1,776戸、面積15,365坪の大惨事となったのです。

このとき、久松町域は全焼し、小笠原子爵家久松町邸と隣接する久松小学校、警視庁第一方面第五分署、さらには明治座のところでみた久松座も焼失しています。

邸宅と財産の多くを失った小笠原家は、久松町を離れて本所区緑町1丁目45番地に移り、この地に戻ることはありませんでした。

小笠原子爵家緑町邸付の画像。
【小笠原子爵家緑町邸付】

そして先ほどまで跡地を歩いてきましたが、小笠原邸があったころをうかがわせるような遺構は、残念ながら見当たりません。

それでは、再び散策に戻りましょう。

金座通りに戻って東方向、小舟町方面へと進むと、約200mで都営浅草線 人形町駅A4出口に到着です。

ここで今回の散策は終了で、歩行距離はおよそ1km、コースは平坦で緑も多く、快適な散策となりました。

この終着地付近には、下町情緒あふれる甘酒横丁や、西郷隆盛邸跡などの見所が多くありますので、足に余裕のある方は、ちょっと寄り道してみてはいかがでしょうか。

この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。

また、文中では敬称を略させていただいております。

引用文献など:

『神田浜町日本橋北之図』影山致恭(尾張屋清七、嘉永3年)

「明治東京全図」明治9年(1876)

『新修日本橋区史』下巻Ⅱ、東京市日本橋区役所 編集・発行1937

『東京市史稿 市街編49』東京都 編集・発行、1960

『角川日本地名大辞典 13東京都』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)

『江戸幕藩大名家事典』上巻、小川恭一編(原書房、1992)

次回は、小笠原子爵家牛込北町邸と牛込袋町邸を歩いてみましょう。

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