前回まで新宮とはどのようなところか、町と産業の歴史を見てきました。
今回は少し角度を変えて、新宮に伝わる伝説からその風土を見てみましょう。
徐福の墓
『紀伊続風土記』によると、慶長年間(1596~1615)に徐福の墓が建てられました。
その後、元文元年(1736)には領主水野忠昭によって徳川頼宣の代に藩儒であった李梅渓の筆になる「秦徐福之墓」の石碑が建てられています。
さらに、天保6年(1865)には水野忠昭の儒臣仁井田好古の撰文になる「秦徐福碑」が建てられたのです。
この徐福と新宮とはどのような関係があるのでしょうか?その歴史を見てみましょう。
徐福伝説の原点
徐福について記されているのは、『史記』始皇帝本紀と『漢書』郊祀志などの中国の史書です。
それらによると、徐福は斉、現在の山東省出身で、字は君房、またの名を徐市といいました。
徐福は仙術の士で、なかでも採薬と煉丹とにすぐれた方士であったとされていいます。
秦の始皇帝の28年(前219)、斉の国の徐福が上書して「海上に蓬萊、方丈、瀛州という三神山があり、そこに仙人が住んでいるので、仙薬を探しに行きたい。」と願い出ました。
当時の燕や斉といった地方では、神仙の術が流行しており、方士たちは上流階級に出入りして不老不死の術を広めていたのです。
不老不死を熱望していた始皇帝は、徐福の願いをすぐに聞き届けられて、徐福が言うままに多数の童男・童女、良男女・五穀・百工などが与えられると、徐福は連れて仙人や仙薬を求める航海に出ていきました。
多額の費用に対して全く成果がないことを訝しんだ始皇帝からの催促にも、徐福は口実を設けて引き伸ばし続けます。
そして、とうとう始皇帝が病没すると、徐福は出航して中国を離れて、その先で王となり、二度と中国に戻ってはこなかったのです。
文献に登場する徐福伝説
『義楚六帖』という書物によると、五代後周の顕徳5年(958)、義楚という僧侶が、日本から渡ってきた弘順大師から徐福の話を聞いたと聞います。
それ話によると、徐福らは蓬萊山を日本の富士山であるとみて来航すると、その地に永住。
その子孫は秦氏を名乗ったといいます。
また、宋代の政治家・文人である欧陽脩は、「日本刀歌」のなかで、日本人の祖先は徐福であり、秦の始皇帝を詐って童男女・百工・五種などとともに、焚書の難から逃れた逸書百篇を日本にもたらして、そのまま日本に留まったと詠じました。
いっぽう日本でも、たびたび徐福が文献に登場しています。
北畠親房が延元4年(1339)に記した『神皇正統記』に徐福にふれました。
さらに、『義楚六帖』での記載を受けて、『本朝神社考』巻四、『本朝怪談故事』巻二といった近世の文献にも、しばしば徐福の名がみられるのです。
熊野と徐福伝説
いっぽう、民間でも徐福の遺跡とされる小祠や塚などが、徐福漂着地とされる京都府の丹後半島伊根町新井崎をはじめ、鹿児島県串木野市の冠嶽、宮崎県延岡市の徐福岩と蓬萊山など、九州から遠く東北地方にまで残されています。
このように全国各地にみられる徐福伝説ですが、その中心となるのが熊野地方といえるでしょう。
新宮市の南方には、室町時代には徐福の墓と、七人の侍臣を祀った七塚が現存しているのです。
また、新宮市の阿須賀神社には、この神社が徐福の漂着地であるとともに、社殿背後の薬草の天台烏葉が生える小山こそが蓬萊山であると伝えられてきました。
また、熊野付近の浦辺には秦住村という集落があることや、那智で産出する紙を徐福紙と呼ぶのは徐福が製法をもたらしたからだという言い伝えが『笈埃随筆』巻三に収められています。
熊野・徐福伝説の背景
このように、熊野に従福伝説が色濃く残った理由としてあげられるのが、大陸系漂着民の伝承です。
熊野は帰化僧の修行場となっていたうえに、多くの漢人が渡来した場所であったことが『熊野社記』などに記されています。
このような背景があって、熊野にやってきた渡来人と徐福が引き連れた人々が結びついて、その後日譚が発生したでしょう。
徐福伝説と熊野詣
いっぽうで、近年は徐福伝説を熊野詣と関連してとらえる見方もあります。
熊野御幸では、数多くの教養人や貴族が熊野を訪れましたが、彼らは『史記』をはじめとする資料も知っていたのはもちろん、中国の神仙思想も理解していたのです。
そして、熊野の持つ神秘性から、この地を神仙境とみなすようになって、それを説明するのに徐福伝説を援用したのではないかとみています。
徐福伝説が喧伝されることで、熊野の神秘性が増して人々の信仰心を増大させるわけですから、前にみた中世末から近世の徐福に関する碑の建立も理解できるのではないでしょうか。
今回は徐福伝説についてみてきました。
もちろん真相は不明とするよりないものの、伝説に様々な思いが交錯しているのが見て取れます。
数回にわたって新宮と熊野の土地柄についてみてきました。
ここで新宮水野氏を取り巻く歴史に戻ることにして、次回は稀代の名君にして乱世の奸雄と評された九代忠央の時代をみてみましょう。
《この章は、『新宮町郷土誌』『熊野史 小野翁遺稿』『日本昔話事典』『日本伝奇伝説大事典』『国史大辞典』『日本説話伝説大事典』『和歌山県の歴史』をもとに執筆しました。》
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