前回は悲劇が続いた水野男爵家の家督を継いだ水野男爵家2代重吉についてみてきました。
そこで今回は、重吉の跡を継いだ忠武についてみてみましょう。
新宮水野男爵家三代・水野忠武
忠武は、明治19年(1886)6月5日に水野忠幹の七男として生まれ、武と名付けられました。
このころ、水野男爵家は日本橋区亀島町に屋敷を構えていたとみられます。
その後、鴻池家で監事を務めるとともに、鴻池銀行東京支配人だった芦田順三郎の養嗣子となります。
水野重吉に子がなかったうえ、鴻池家が衰退する中で大正11年(1921)養父芦田順三郎が死去したこともあって、昭和3年(1928)7月に水野男爵家に復籍しました。
重吉が昭和3年(1928)7月4日に鎌倉で没すると、昭和3年(1928)9月1日に家督を継いで襲爵します。
その後、昭和9年(1934)には名を忠武と改めていますが、これは新宮水野家の当主が忠啓、忠央、忠幹といったように、忠の字を冠した名を名乗っていたことによるのでしょう。
忠武の職業
忠武は、『人事興信録 第11版改訂版』によると、仁壽生命保険(株)評議員を務めています。
仁壽生命は、明治27年(1894)に三井銀行重役の西邑虎四郎と三野村利助、近江国長浜の豪商・下郷傳平らによってつくられた合資会社で、大正4年(1915)に株式会社となっています。
その後、昭和15年(1940)10月に野村生命保険株式会社と合併して消滅しました。
ちなみに、野村生命保険は昭和22年(1947)には財閥解体により東京生命相互会社となったあと、経営破綻を経て、現在はT&Dファイナンシャル生命となっています。
忠武の渡米
朝日新聞・昭和16年(1941)6月10日付夕刊東京版によると、忠武は視察のため渡米していました。
「鹿野丸米国から帰る」と題された記事には、6月9日午前11時にロサンゼルスを発って横浜に到着した国際汽船快速貨物船鹿野丸には、米国から引き揚げた11人の邦人が乗り組んでいました。
そのうちの一人が忠武で、「「ほとゝぎす」同人白川 水野忠武男爵が3箇月の米国視察から帰国」と記載されています。
日米開戦直前の緊張した時期で、邦人が米国か次々とら引き揚げる中、わざわざ渡米した忠武が3箇月にわたってどのような視察を行ったのか、大変興味深いところです。
また、記事中に「ほとゝぎす」同人とあるように、忠武は俳句を趣味としていたことは『人事興信録』13版と14版にも記されています。
「ホトトギス」とは
俳句雑誌「ホトトギス」は1897年1月に正岡子規の門弟柳原極堂が松山で発行したことにはじまります。
明治31年(1898)10月に子規が東京に移ってからは高浜虚子を発行人として俳句革新運動の中軸となり、日本派俳句の拠点となりました。
俳句以外にも、夏目漱石『吾輩は猫である』や伊藤佐千夫『野菊の墓』などの小説も掲載しています。
昭和の初めには4Sともいわれた水原秋桜子・山口誓子・阿波野青畝・高野素十をはじめ、日野草城・松本たかし・中村草田男・中村汀女・星野立子らが活躍し、隆盛期を迎えていました。
昭和俳句弾圧事件
しかし昭和6年(1931)水原秋桜子が「ホトトギス」に離反して主体の近代化と抒情性を重視した俳句革新運動をはじめると、山口誓子や日野草城なども加わって反「ホトトギス」の運動へと発展しました。
この運動が次第に反戦思想を強めていくと、昭和15年(1940)からは治安維持法にもとづく俳句誌や俳人への言論が起こり、次々と俳句誌が休刊に追い込まれることになったのです。
忠武が渡米した昭和16年(1941)は、この昭和俳句弾圧事件の端緒となった京大俳句事件が昭和15年(1940)2月に起こったすぐ後でした。
そして、渡米の間もこの言論弾圧が続いていましたので、忠武もまったく無関心とはいえない状況だったのです。
ただし、忠武の渡米目的や、俳句弾圧への見解などを明らかにできる資料には出会えませんでした。
今回は危機のなかで水野男爵家を継いだ忠武についてみてきました。
次回は、水野男爵家の終焉についてみていきましょう。
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