前回まで浅野家時代の新宮をみてきました。
今回は、浅野忠吉が築いた新宮城の歴史を、のちの時代まで一気に見てみることにしましょう。
丹鶴山
新宮城は熊野川(新宮川)の河口の右岸、丹鶴山に築かれた城です。
城から東を望むと、はるかに太平洋を望むことができることから、別名を沖見城といいます。
もともとこの場所は、昔はよく鶴が舞い降りたといわれ、熊野三山を支配していた熊野別当第九代殊勝が別邸を営んだ場所でもありました。
その後、第十一代快真が屋敷を築いてからは代々この地に居住するようになったのです。
平安時代末、六条判官源為義がこの地に住む熊野別当の娘のもとに通い、一男一女をもうけました。
この女子は丹鶴姫と名付けられると、成人して第十九代別当行範に嫁ぎ、田鶴原の女房と呼ばれるようになります。
これ以降、この丘を丹鶴山と呼ぶようになり、新宮城ものちに丹鶴城と名付けられました。
新宮城の築造年代
新宮城は、堀内安房守氏善に変わって領主となった浅野忠吉が、元和4年(1618)に丹鶴山にあった東仙寺と宗応寺を移転させて縄張りを始めたとする説が一般的です。
いっぽうで、忠吉が新宮入りしてから築城までの期間が空きすぎていることから、元和4年よりも前の慶長年間に築城をはじめたとする説もあります。
新宮城廃城と再建
たとえ浅野忠吉が慶長年間に新宮城を築いていたとしても、築城から間もない天和元年(1615)には一国一城令によって取り壊されたのです。
しかし、新宮が南の要であることから幕府は新宮城再建を許可しました。
そこで忠吉は、天和4年(1618)に縄張りをはじめ、はやくもその翌年に一応の完成をみています。
この早い完成は、忠吉が新宮入りしてからの慶長期(1600~1615)に築城したものを再利用したことによるとみて、慶長築城説が唱えられているのです。
新宮城のその後
新宮城は、明治3年(1870)に廃城となり、明治5年(1872)に城内の諸役所が取り払われます。
さらに、明治8年(1875)には城内の一部建物が払い下げとなり、その他すべての構造物が払い下げられるとともに取り壊されたのです。
一時は遊具やビアガーデンなどが設けられて小遊園化したものの、いつの間にか上る人も少なくなり、荒れるに任されていました。
昭和30年代(1955~1964)に天守閣再建話が盛り上がるものの実現することなく立ち消えに。
昭和50年(1975)10月、ようやく城跡を新宮市が買収し、公園として整備がはじまりました。
その後も数度にわたって調査と整備が行われて、現在は新宮市民の憩いの場として親しまれています。
今回は新宮城の歴史をみてきました。
次回は、新宮城の構造と、新宮の人々が城によせる思いをみてみましょう。
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