前回は、木場公園のシンボル、木場公園大橋についてみてきました。
今回は、現在は木場公園の一角となっている新宮水野家深川三好町邸についてみてみましょう。
《グーグルマップは新宮水野家深川三好町邸跡にあたる木場公園多目的広場を指しています。》
新宮水野家深川三好町邸
木場公園大橋を渡って、円形をしたイベント広場の西側を通り抜けると、植栽の向こうに方形のグランドがみえてきました。
このグランドが多目的広場で、北側には東京都立現代美術館がみえます。
このまま多目的広場南西にある東屋へ行ってみましょう。
じつはこの東屋付近が新宮水野家深川三好町邸の跡地なのです。
それでは、新宮水野家深川三好町邸についてみてみましょう。
廃藩置県により上京を命じられた新宮水野家当主の水野忠幹は、一時期市ヶ谷浄瑠璃坂の旧上屋敷には住んだようですが、まもなく深川三好町2番地に移りました。(『官許貴家一覧 元武家華族之部』雁金屋清吉1873による、第35回「深川三好町時代」参照。)
『江東区史』によると、忠幹はこの場所に新宮材専門問屋を開業するために広大な邸宅兼店舗を建築したのです。
建設にあたっては、市ヶ谷浄瑠璃坂の邸宅や、日本橋浜町の私邸を売却して得た多額の資金が投入されました。
しかし忠幹の商売は、「「武士の商法」のためか長続きせず、のちに新宮物産商社として松井浅次郎に継承された。」(『江東区史』)
忠幹は事業に失敗し、江戸時代には多くの財を誇っていた新宮水野家は、財産の多くを失いました。
そして、深川三好町邸も、建設からわずか10年ほどで人手に渡ることになります。
邸宅の規模と構造
水野忠幹が建設した深川三好町邸の規模や構造がわかる資料は、残念ながら見つかりませんでした。
そこで、いくつかの手掛かりをもとに推測してみたいと思います。
まず、邸宅が存続した時期に刊行された「明治東京全図」には屋敷名が記載されていませんが、邸宅のあった深川三好町2番地は空白であることから、そのほぼ全域が邸宅であったとみられます。
この部分を少しのちの時代の『東京市及接続郡部地籍台帳』(東京市区調査会、1912)と『東京市及接続郡部地籍地図』(東京市区調査会、1912)でみてみましょう。
住所表示は深川区三好町1番地で、その面積は3752.59坪で、すぐ隣の三好町3番地に住む水野徳右衛門の所有となっています。
また徳右衛門は、三好町1番地に隣接する西永町2番地2769.11坪と3番地3008.50坪も所有していました。
そして、この土地の西半の多くを材木商松本光太郎に貸しているのです。
さらに地籍地図をよく見ると、光太郎の店舗は三好町1番地と西永町2番地にまたがって建てられていて、西永長部分には貯木用の堀割が設けられているのがわかります。
また、徳右衛門所有地の東半と、西端部分は地割が複雑な縦長となっていることからみて、可能な限り多くの家作を建設しているようです。
これは全くの推測ですが、徳右衛門がこの場所に所有していた三筆分の土地、合計9530.02 坪が、新宮水野家の邸宅であったのではないかと私はみています。
つまり、徳右衛門は、忠幹から屋敷と店舗をまとめて譲り受けて、堀割などをそのまま材木商に必要な部分はそのまま材木商の光太郎に貸し、その他の部分は可能な限り借家をたてたのではないでしょうか。
資産家水野徳右衛門
この水野徳右衛門という人物は、深川のほかにも京橋区や日本橋区にも土地を保有して家作を持つ資産家で、深川区の名士でした。
明治33年(1900)5月に深川区の有力者57名が帝国ホテルで渋沢栄一父子を招待して渋沢の男爵叙爵を祝いましたが、その中に水野徳右衛門の名がみえます。(『竜門雑誌』第145号(竜門社、明治33年6月))
また徳右衛門は、『梅若実日記』明治31年(1898)12月20日条、明治32年(1899)12月20・24日条、明治34年(1901)9月4日条にも登場し、深川三好町の資産家と記されているのです。
この『梅若実日記』は、幕末・明治の能楽師・初代梅若実が残した日記です。
その記述内容かみると、水野徳右衛門は能楽に興じる教養人であることがわかります。
同じ水野姓ですが、水野新宮家と徳右衛門のつながりは見えませんでした。
ここまで水野忠幹が建てた深川三好町邸についてみてきました。
忠幹の新時代に抱いた野望は無残に潰えたわけですが、いっぽうで明治10年(1998)9月1日に、待望の嫡男忠宜が生まれています。
しかし、忠幹による事業の失敗で大きなダメージを受けた新宮水野家は、家の希望であった嫡男忠宜は八甲田山雪中行軍遭難事件で無念の事故死を遂げて、ふたたび栄華を誇ることはなかったのです。(第43回「「八甲田山」の真実・水野中尉の死」参照。)
次回は、木場公園が建設される前にこの場所にあった、木場の町についてみてみましょう。
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