前回は誕生から鎌倉時代までの平泉寺をみてきました。
そこで今回は、南北朝時代の戦乱に巻き込まれる平泉寺をみてみましょう。
鎌倉幕府滅亡と平泉寺
前回みたように、鎌倉幕府からのひどい仕打ちもあって、鎌倉時代末に後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の綸旨を発すると、平泉寺は迷うことなく宮方についたのです。
ここからの推移を『太平記』でみてみましょう。
元徳3年(1331)後醍醐天皇が笠置山に籠り、楠木正成が挙兵して赤坂城で戦うという元弘の変が起こります。
これを聞いた平泉寺衆徒は「箱ノ渡ヲ打越」して大野市の牛ヶ原荘に乱入し、地頭淡川時治を滅ぼして宮方への旗色を鮮明にしました。
この淡川時治は、鎌倉幕府から平泉寺を監視する役目を命じられていましたので、平泉寺側の恨みを買っていたのでしょう。
その後、足利尊氏、新田義貞といった有力御家人の離反もあって、元弘3年・正慶2年(1333)に鎌倉幕府は滅亡します。
この歴史的大事件を、「いざ(13)さん(3)ざん(3)」のゴロ合わせで覚えた方も多いのではないでしょうか。
この歴史的大事件に、平泉寺もかかわっていたわけです。
新田義貞
その後、後醍醐天皇の建武の親政を経て、足利尊氏が今度は朝廷から離反し、新田義貞や楠木正成たち南朝方と戦うことになります。
当初は南朝方が優位でしたが、建武3年・延元元年(1336)の湊川の戦で楠木正成が自刃して尊氏軍の勝利に終わると、尊氏は北朝と室町幕府を打ち立てました。
北朝優位のなか、次第に追い詰められた新田義貞は、活路を北国に求め、戦いの場を越前に移します。
平泉寺衆徒はこの新田義貞を援けて、金ケ崎(敦賀市)、燧城、三峰城(鯖江市)と転戦していきました。
藤島の戦い
ところが、建武5年・延元3年(1338)に平泉寺は突如、足利方へと寝返ります。
北朝の武将で越前国府に拠点を置いた足利家一族の斯波高経から、藤島七郷を与えることを条件とする調略を受けたことが原因でした。
そして、平泉寺衆徒は、義貞のもとを離れて藤島城(福井市)に立てこもります。
南朝方がこれに攻めかかるものの苦戦して、義貞に救援を請いました。
義貞はこれに応えて、少数の兵を率いて藤島に向かうと、その途上で斯波軍と遭遇して合戦となり、討ち死にしてしまったのです。
この功により、平泉寺は藤島七郷を回復しました。
畑時能の奮闘
その後も、南朝方の武蔵国秩父郡の人畑時能は、義貞の死後も越前各地で奮闘していました。
暦応4年・興国2年(1341)に、勝山市の西端にある伊地知山(現在の鷲岳)に立てこもっています。
しかし時能は斯波氏の大軍に囲まれて壊滅し、越前での南北朝騒乱は終わりを迎えたのでした。
こうして北朝側についた平泉寺は、南朝方の大将・新田義貞が討ち死にするきっかけをつくったのです。
このことをきっかけに、越前の支配者たちから庇護をうけるようになった平泉寺は、空前の繁栄を謳歌することになりました。
次回は、宗教都市にまで成長した平泉寺をみてみましょう。
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