7月21日は、明治41年(1908)に最後の京都所司代・松平定敬が亡くなった日です。
最後の最後まで意地を貫き、明治政府と戦った姿が称賛される定敬ですが、戦後は何を想ったのでしょうか。
定敬の生涯をたどり、彼の心の内を探ってみましょう。
京都所司代時代まで
松平定敬(まつだいら さだあき)は、弘化3年12月2日(1846年)美濃国高須藩主松平義建の七男として高須藩江戸藩邸で生まれました。
ちなみに、実兄に尾張藩主徳川慶勝、一橋家徳川茂栄、会津藩主松平容保と、英邁な兄弟として名高かった、いわゆる「高須四兄弟」の末弟です。
安政6年(1859)9月に桑名藩主松平定猷の死去に際して養子となり、11月に桑名藩11万石を襲封します。
万延元年(1860)11月には江戸城溜間詰にすすめられ、元治元年(1864)4月には京都所司代に任じられて、実兄の京都守護職・会津藩主松平容保を支えて京都の治安維持に務めました。
7月に起こった禁門の変では、会津藩が守る蛤御門を長州藩兵が攻撃しますが、桑名と薩摩両藩兵が救援して撃退に成功します。
9月には孝明天皇から鞍一具を下賜されて、たびたびの宿衝を賞詞されました。
その後も定敬は兄の容保と行動を共にしましたが、第二次長州征伐での解兵の奏請は容保が徳川慶喜の依頼を断ったため、慶応3年(1867)1月に定敬が行っています。
新政府との戦い
12月の王政復古によって京都所司代を免じられると、容保とともに藩兵を率いて慶喜に従い、大坂城に入ります。
明治元年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いで敗れると、定敬は官位を剥奪されて海路江戸に向かい、容保とともに慶喜へ再挙を説得しますが、逆に帰藩謹慎を進められました。
こうして新政府により、徳川慶喜と会津藩、桑名藩は朝敵とされ、追討が命じられました。
朝敵とされたため、国元では、新政府軍がすぐにでも攻め寄せる恐れがありました。
そこで、先代当主の遺児・万之助(のちの定教)をたてて、新政府に恭順することを家老たちが中心になって決めていたのです。
そして桑名藩の本領では、は城を明け渡して藩士は謹慎し、新政府へ恭順しました。
こうして徹底抗戦を主張する定敬と、桑名藩の国元とで意見が対立したことから、定敬は桑名へ戻ることをあきらめて、3月には横浜から海路箱館を経て桑名藩領がある越後柏崎に向かいます。
柏崎の所領では、家臣を主戦論でまとめ上げて、桑名藩兵で新たに隊を設立して軍備を整えました。
ついに新政府軍の進攻がはじまると、実兄・松平容保の籠る会津へと向かいますが、残った桑名藩兵は、山県有朋率いる官軍と激突すると、これを撃破しています。(鯨波戦争)
いっぽう、定敬は、8月から会津藩城下で戦闘がはじまると米沢へ向かい参陣を求めるものの、9月に米沢藩が降伏したために、福島を経て仙台に向かいました。
ここで、10月に松島湾に進んだ榎本武揚率いる旧幕府艦隊と合流して箱館に逃れたのです。
降伏とその後
いったんは土方歳三のもとで戦う決意を固めますが、明治2年(1869)には新政府軍の箱館攻撃計画を知ったころに、桑名藩の処遇への悪影響を伝えられて徹底抗戦を断念。
それでも新政府の元で生きるのを善とせず、海外逃亡を決意します。
こうして4月の五稜郭開城に先立って箱館を脱出し、アメリカ船で海外逃亡を図るものの、資金が尽きて断念せざるをえませんでした。
そして、帰順した国元の桑名藩が、藩存続のために早期の帰順が求められていることを知り、5月には上海から横浜に戻ると、家臣を派遣して、ついに帰順謝罪を朝廷に嘆願しました。
こうして定敬は降伏して、東京の名古屋藩邸で謹慎したのです。
その後、明治2年(1869)8月には、定敬は津藩に永預となる一方、特旨をもって弟の定教(定敬の先代猷の長男)への家督相続を許されて、桑名藩松平家は旧領のうち6万石を賜って存続を許されました。
さらに明治4年(1871)3月には、定敬は桑名藩に預替となり、5年正月には赦免されたのです。
明治10年(1887)に西南戦争が起こると、前譴を償うために、旧桑名藩士およそ400人を募って一隊を編成して出征しました。
いっぽう、旧桑名藩兵の多くが参戦したのは、一説によると朝敵とされた恨みを晴らすためだったともいわれています。
そして定敬は、この功により12月には正五位を授与されました。
明治29年(1893)日光東照宮宮司となり、明治41年(1908)7月20日には従二位に昇叙したあと、その翌日に61歳で没しています。
桑名松平家浅草新福井町邸
明治維新後に新政府は、桑名藩主松平定教に浅草区浅草新福井町2番、現在の台東区浅草橋2丁目に屋敷を与えました。
この地に明治13年(1880)ごろまで定教は邸宅を構えていましたが、定敬が預けられていたのもこの屋敷でした。
新福井町の屋敷は、柳橋の花街も近く、とても賑やかなところだったといいます。
この屋敷で謹慎する定敬は、まだ30代後半と血気あふれる年ごろでした。
アメリカ留学を志し、養嗣子の定教とともに勉学に励んだともいいますが、ようやく訪れた静かな日々に、定敬はようやく人生を謳歌することができたのかもしれません。
現在は、屋敷の痕跡は残っていませんが、桑名藩が屋敷神として勧進した扇稲荷が、屋敷がなくなった後も、町の守り神として大切に祀られています。
(この文章では、敬称を略させていただきました。
また、執筆にあたっては、『三百藩主人名事典』『江戸時代全大名家事典』『国史大辞典』『明治時代史大辞典』を参考に執筆しています。)
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