前回は、九州征伐における立花宗茂の活躍をみてきました。
今回は、文禄の役での宗茂をみてみましょう。
文禄の役
天正19年(1591)8月23日、豊臣秀吉は「唐入り」と称する明国征伐の意志を諸侯に向けて発表すると、肥前名護屋に前線基地となる巨大な城を築きます。
そして、諸将への軍役を定めていきますが、立花家には10月に禄10万石に対して3,000人の賦課が命じられました。
こうして全国から30万近い大軍を集めて、文禄元年(1592)秀吉は朝鮮半島に大軍を派遣したのです。
これが文禄の役で、宗茂は小早川隆景率いる六番隊に属し、兵2,500を率いて2月13日に名護屋から出陣しました。
朝鮮上陸
宗茂たちは、5月初めに洛東江をさかのぼって東莱付近に上陸します。
その後、漢城会議で六番隊は全羅道を攻略することとなって、忠清道から南下を始めました。
ところが、朝鮮軍や義勇軍と戦うものの、ゲリラ戦法に苦戦して侵攻は進みませんでした。
そんななか、7月には明の援軍が平壌を攻撃したことを受けて、六番隊の主力小早川隆景が漢城方面に配置換えされたために、宗茂たちは全羅道の拠点防衛につきました。
その後、小早川隆景との合流を命じられて漢城方面に移り、小早川秀包・高橋統増とともに平山と牛峰を守備したのです。
決戦前夜
文禄2年(1593)李如松率いる明の主力軍が小西軍を攻撃して平壌を攻略、さらに南下を開始します。(五島藩五島家編「文禄の役」参照)
これに対して日本軍は、漢城北方で明の主力軍を迎え撃ち、決戦迎撃する方針を立てましたので、宗茂たち平山・牛峰守備隊は撤退して漢城に戻るよう命じられました。
黒田長政の救援もあって、小西行長軍が漢城に戻ると、日本軍は軍議を開き、宗茂と統増は決戦で先鋒を務めることになったのです。
いよいよ明・朝鮮連合軍と日本軍は目前に迫ってきました。
次回は文禄の役最大の激戦、碧蹄館の戦いにおける宗茂の活躍をみてみましょう。
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