前回まで見てきたように、元木場(現在の佐賀)の町は中之堀川とともに栄えてきました。しかし、この状況が一変します。
明治時代になると、政府による殖産興業政策を受けて、深川の地にもあちこちに工場が造られました。
最初に見たように、写真の浅野セメントをはじめ、東京人造肥料会社、旭焼陶器、汽車製造株式会社など、深川で多くの企業が巨大な工場を構えたのですま(「深川工業地帯の名前のない橋」参照)。
ここでは、日本のセメント発祥の地に建てられた記念碑に掲載されている創業時(明治23年)の浅野セメントの様子を見てみましょう。
手前が隅田川、右が仙台堀川で、下に見えるのが仙台堀川河口の上之橋です。
蒸気船や和船が、盛んに往来して工場に物資を運びこんでいる様子が見て取れます。
このように、深川を縦横に走る掘割を使った水運と、豊かな地下水、そして安価で広い土地と、近代工業に欠かせない要素を併せ持った深川の地は一大工業地帯となっていったのでした。
このころの様子を泉鏡花が作品に取り入れていますので、これを見てみましょう。
「ドロドロした河岸に出た。
「仙台堀だ。」
「だから、それだから、行留りかなぞと外聞の悪いことを言うんです。—そもそも、大川からここへ流れ口が、下之橋で、ここが即ち油堀…‥」
「ああ然うか。」
「間に中之橋があって、1つ上に、上之橋を流れるのが仙台堀川ぢゃありませんか。…‥断って置きますが、その川筋に松永橋、相生橋、海辺橋と段々に架かっています。…ああ、家らしい家が皆取払われましたから、見通しに仙台堀も見えそうです。すぐ向うに、煙だか、雲だか、灰汁のような空にただ一ヶ処、樹がこんもりと青々として見えましょう。—岩崎公園。大川の方へその出っ端に、お湯屋の煙突が見えましょう。何ういたして、あれが、霧もやの深い夜は人をおびえさせましたセメント会社の大煙突だから驚きます。中洲と、箱崎を向うに見て、隅田川も漫々渺々たる処だから、あなた驚いてはいけません。」
【泉鏡花『深川浅景』(一部を現代仮名遣いに変更しました)】
こうして、中之堀川周辺の元木場の町も「家らしい家が皆取払われ」て、町屋から工場へと変わっていったのです。
これは、東京郵便電信局『東京市深川区全図 明治三十年十一月調査』(1898年 国立国会図書館デジタルコレクション(佐賀町部分))を再び見ると、工場用地と思われる大きな地番・街区と、町屋とみられる細かい地番・街区が混在しているのがわかります。
また、この地図で気になるのが、深川中川町と深川富田町を結ぶ「富中橋」という橋の記載です。この橋の創架年代など、詳しい情報はわかりませんでした。
ただし、この地図より新しいものではその存在が確認できません。
一例として、東京市区調査会『東京市及接続郡部地籍地図 下巻』大正1年 国立国会図書館デジタルコレクション(佐賀町付近)で確認してみましょう。
この橋は江戸時代の絵図にも橋が描かれていないことから、短期間橋が設けられていたと思われます。
ここまで明治の殖産興業政策によって中之堀川周辺の様子が大きくわった状況を見てきました。
次回は、この町を襲った二つの大きな悲劇と この橋の誕生を見てみましょう。
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