前回見たように、近代的な橋に生まれ変わった小川橋を、さらなる悲劇が襲います。
太平洋戦争末期の昭和20年(1945)3月、米軍による東京大空襲によって東京の下町一帯は再び壊滅的被害を受けたのでした。
小川橋周辺も例外ではなく、一面の焼け野原に。
それは、関東大震災からわずか22年後のことでした。
「東京大空襲で焦土と化した東京」(『日本橋消防署百年史 明治14年-昭和56年』)では小川橋周辺の様子が記録されています。
ちなみに、画面中央が久松小学校、その隣が久松警察署で、手前を斜めに横切るのが浜町川。
そして中央やや右の橋が小川橋で、画像を見る限り落橋を免れて機能しているように見えます。
『中央区史 下巻』によると、「(灰燼の多い千代田・港・台東)区の道路はどこも灰燼の山が築かれている有様であり、区内でも広いので有名な昭和通りも、中央部に灰燼の山をなす状態であった。これでは交通・衛生・公安上からもそのまゝにしておけない」という惨憺たる状態でした。
そこで、この問題を解決するために、「比較的流れがとまつたりして現在舟行に役立つていない川で、浄化の困難な実情にあるものを埋立て宅地とし、その土地を売つて事業費を取り返す」という一石二鳥の方策が採用され、浜町川の北半が対象となったのです。
昭和32年撮影の空中航空写真を見ると、埋め立て工事が進んで、画面中央の小川橋まで終了している様子がうかがえます。
こうして浜町川の埋めたてに先だって、昭和23年から小川橋の撤去が始まります。
橋の撤去に続いて昭和24年には灰燼による浜町川の埋め立てが始まり、昭和25年に終了しました。
浜町川の延伸とともに誕生した小川橋は、川と共に消滅したのです。
昭和38年撮影の空中写真を見ると、中央やや上に橋がなくなったばかりの久松警察署前交差点の様子が分かります。
あらためて小川橋の跡を探索してみると、冒頭の「小川橋の由来」碑があるあたりは、上流側の橋詰広場と旧河川公園が一体化して残り、下流側は日本橋消防署人形町出張所の植栽として利用されているのが確認できました。
形は変わっていますが、現在も手入れが行き届いて大切に利用されているのが分かります。
「小川橋の由来」碑
小川橋そのものはすでに70年以上前に撤去されていますが、橋の記憶は今も地域住民に大切にされているのです。
そのことは、「小川橋の由来」碑の裏面に回ると、この碑が警視庁創立100周年と久松警察署開設100周年を記念して昭和49年に作られていますが、これに地元町会連合が協賛していることからもわかります。
ところで、小川橋の名前の由来は何でしょうか?
前回みたように、小川橋は難波町(明治5年以降は浪花町)と久松町(同浜町)をむすぶ橋として重用されてきました。
ですので、明治以前は町名から難波橋と呼ばれることが多かったようです。
そして、明治の町名変更で難波町の名が消えて以降、橋の名は小川橋と改称されたとみられます。
ただし、小川橋の名称使用に古いものも見られるので、江戸時代から正式名称が難波橋、別称が小川橋だったと考えるのが妥当でしょう。
国立公文書館デジタルアーカイブ〔小川橋部分〕)】
『明治東京全図』を見てもわかるように、小川橋の名は事件より前に定着していたのです。
ただ残念ながら、小川橋の名前の由来は解明できませんでした。
ここまで見てきた小川橋の歴史を振り返ると、小川巡査が小川橋の名の由来とするのは誤りと言わざるを得ません。
しかし、名前が同じだったのが偶然だったにせよ、事件から今に至るまで百年の時を超えて小川巡査の後輩たちや地域の方々が、彼への感謝を忘れないでいるのは素晴らしいことです。
小川橋の名は小川巡査の業績と共に、これからもみんなの心に大切に記憶されていくことでしょう。
ところで、冒頭の義母の言葉には続きがあります。
「小川巡査には年老いた母があったそうじゃないの。彼は母一人残して死んじゃったのよ!あなたは彼のように、世のため人のために命を投げ出してはいけません。何があっても家族を護る、家族第一でないとだめよ。」
やはり主夫となった私に、まだまだ不安を感じておられたのでしょう。
こうして主夫としての心構えを私に諭してくれたのでした。
義母が亡くなってもう、何年も経ちました。
私は小川橋の跡を通るたびに、いまだにいい加減この上ない自分の家事をちょっぴり反省するのでした。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にさせていただきました。(順不同、敬称略)また、文中では敬称を省略させていただきました。
引用文献:『名探偵になるまで』須藤権三(章葉社、1926)、『帝都復興史 附・横浜復興記念史、第2巻』復興調査協会編(興文堂書院、1930)、『帝都復興事業誌 土木編 上巻』復興事務局編(復興事務局、1931)、『帝都復興区劃整理誌 第1篇 帝都復興事業概観』東京市編(東京市、1932)、『明治・大正・昭和歴史資料全集、犯罪篇 上巻』(有恒社編(有恒社、1934)、『東京市史稿 橋梁篇第一』(東京市役所、1936)、『中央区史 上巻・下巻』(東京都中央区役所、1958)、石川悌二『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』(新人物往来社、1977)、『千代田区史 区政史編』(千代田区総務部、1998)
参考文献:『中央区の文化財(三)-橋梁-』社会教育課文化財係編(中央区教育委員会、1977)、伊東孝『東京の橋―水辺の都市環境』(鹿島出版会、1986)、『中央区文化財調査報告書 第5集 中央区の橋・橋詰広場-中央区近代橋梁調査-』(東京都中央区教育委員会教育課文化財係、1999)、鈴木理生『図説 江戸・東京の川と水辺の辞典』(柏書房、2003)、『明治時代大辞典 第1巻』宮地正人・佐藤能丸・櫻井良樹(吉川弘文館、2011)、本田創『東京暗渠学』(洋泉社、2017)
次は浜洲橋です。
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