隠れた震災復興建築 鞍掛橋(くらかけばし)④

前回みたように、東京大空襲の灰燼処理のために浜町川と共に姿を消した鞍掛橋ですが、現在はどうなっているのでしょうか?

実際に歩いて確認してみましょう。

鞍掛橋交差点の画像。
【鞍掛橋交差点(2020年5月)】

国道6号線鞍掛橋交差点は、総武本線馬喰駅と地下鉄新宿線馬喰横山駅から南西に約100m、地下鉄日比谷線小伝馬町駅から北東に約200mの位置にあります。

バス路線も通る表通りの繁華な商業地で、平日はビジネスマンたちで混みあっていました。

それでは、今回は馬喰横山方面から歩いてみましょう。

数分で鞍掛橋交差点が見えてきました。

信号の名称掲示板で鞍掛橋の名があるほかは、一見するとそれらしきものは見えません。

鞍掛橋跡地の位置(住所表示板に加筆)の画像。
【鞍掛橋跡地の位置(住所表示板に加筆)】

この辺りの様子を、近くにあった住居表示板で見てみましょう。

図の赤丸が鞍掛橋交差点ですが、よく見ると、この交差点を横切る部分だけが細長い街区になっているのが分かるでしょうか?

この部分を観察するために、これまで歩いてきた江戸通り(国道6号線)から90度左、交差点の南東側をのぞいてください。

先ほど見た細長い街区は二つがセットになっていて、それぞれが一方通行の道になっているのが見えてきます。

北東側の久松町方面への一方通行になっているのが「西通」、南西側の東神田方面への一方通行になっているのが「みどり通り」です。

どちらの通りも見通してみると、ゆるやかにうねっていているではありませんか。

そうです、この二本の通りにはさまれた空間こそが、かつての浜町川なのです。

そして、その真ん中を歩行者専用の細い道が通っているのが確認できます。

今度は、真ん中を走るる歩行者専用道に入ってみましょう。

ここはビルにはさまれた薄暗いこの空間、なんだか時代に取り残されたみた異空間かエアポケットに迷い込んでしまったかのような気分です。

旧浜町川にある東京都下水道局の看板の画像。

気を取り直してさらに歩みを進めると、下水局の看板がありました。

そうです、この道路を管理しているのは東京都下水局で、この下を下水管が通っているのです。

つまりこの道は、下水管の管理用道路なのでした。

浜町川は廃川になった後、下水道に転用されたわけです。

ちょっと残念に思いつつ鞍掛橋交差点に戻ると、交差点部分が高まりになっているのが分かります。

これって鞍掛橋の名残?と思ったのですが、橋が埋めっているとする説(『中央区の橋・橋詰広場』復興橋一覧)、橋は撤去されていて下水管を激しい車交通から守るための盛土という説『中央区史』があって、はっきりしません。

ただし、『日本橋横山町馬喰町史』によると、昭和27年時点では、浜町川は打て立てられていましたが、鞍掛橋は陸橋としてそのまま使用されていた、と記録しています。

ですので、私はやはりここにはかつての鞍掛橋が埋められているものと考えています。

かつての鞍掛橋の橋詰公園の花壇。

鞍掛橋交差点に戻ってみると、交差点の南西に小さな公園が整備されています。

地元町会の方々の手入れによって四季の花々が美しいこの公園は、かつての鞍掛橋の橋袂広場なのです。

交差点を渡ると、ここにもよく手入れされた公園があって、近隣のビジネスマンたちが一休みする姿も見られ、どうやら隠れた人気スポットのなっているようです。

こちらもまた、かつての鞍掛橋の橋詰公園を拡張したものです。

小公園の向うには、反対側で見たのと同じような風景が広がっています。

少し離れたところに木々が見えますが、これが龍閑児童公園です。

ここは鞍掛橋の次の橋、竹森橋がかかっていたところであり、浜町川に龍閑川が合流していた場所でもあります。

公園には、かつての川の流れを示す橋を模したモニュメントが置かれるとともに、トイレも設置されています。

龍閑児童公園の画像。
【龍閑児童公園】

近隣住民の憩いの場となっているこの公園で、今回の探索はおしまいです。

今回の探索では鞍掛橋の痕跡として、橋詰公園を見つけることができました。

地元の方々によって大切にされ、手入れの行き届いた公園は、この場所に集まる多くのビジネスマンたちの憩いの場となっています。

しかし説明板などはなく、わずかに交差点名にその名を留めるのみでした。

一方で、鞍掛橋周辺が活気あふれる商業地であることを体感することができました。

これは前回で見たように、関東大震災前からこうした状況があったわけですから、芥川龍之介が『中央公論』の大正8年(1919)9、10月号に『妖婆』を発表したころも、今と変わらぬ活気あふれる場所であったろうと思うのです。

芥川竜之介画像((『芥川竜之介集』新潮社、1927、国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「芥川竜之介」(『芥川竜之介集』新潮社、1927、国立国会図書館デジタルコレクション)】

ですから、冒頭でみた泰さんの言葉「田舎者じゃあるまいし、――気が利かないにも、ほどがあるぜ。だが何だってまた、あんな所で、飛び降りなんぞしたんだろう。」を言い換えると、「鞍掛橋のような繁華で人通りの多い場所で(しかも、お島婆の住む本所一ッ目橋から1㎞は離れているのに)市電から飛び降りさせるとは、(多くの人に見せるためかだろうから)あまりにひどいじゃないか!」と言っているわけです。これは泰さんが、お島婆の妖力のすさまじさと残忍さに驚嘆し、心の底から恐怖したのだと分かります。

わずかな言葉でこれだけの意味を込めるとは、さすがは芥川龍之介!と改めて心から感嘆すると同時に、彼の持っていた底知れぬ可能性に驚嘆するのでした。

それにしても、もっと芥川のミステリー読みたかったなぁ、と私はしみじみ思うのでした。

この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にさせていただきました。(順不同、敬称略)また、文中では敬称を省略させていただきました。

引用文献:『帝都復興史 附・横浜復興記念史、第2巻』復興調査協会編(興文堂書院、1930)、『帝都復興事業誌 土木編 上巻』復興事務局編(復興事務局、1931)、『帝都復興区劃整理誌 第1篇 帝都復興事業概観』東京市編(東京市、1932)、『東京市史稿 橋梁篇第一』(東京市役所、1936)、『中央区史 上巻・下巻』(東京都中央区役所、1958)、石川悌二『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』(新人物往来社、1977)、『千代田区史 区政史編』(千代田区総務部、1998)、芥川龍之介『妖婆』青空文庫

参考文献:『日本橋横山町馬喰町史』有賀祿郎編(横山町馬喰町問屋連盟、1952)、『東京の橋―水辺の都市環境』伊東孝(鹿島出版会、1986)、『中央区文化財調査報告書 第5集 中央区の橋・橋詰広場-中央区近代橋梁調査-』(東京都中央区教育委員会教育課文化財係、1999)、鈴木理生『図説 江戸・東京の川と水辺の辞典』(柏書房、2003)、本田創『東京暗渠学』(洋泉社、2017)

次回は小川橋です。

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