松尾小笠原家の歴史【勝山藩小笠原家編(福井県)⑬】

前回までは、小笠原家が入封するまでの越前勝山についてみてきました。

今回は、勝山に来るまでの小笠原家の歴史をたどってみましょう。

越前勝山藩小笠原家

まず最初に、松尾小笠原家の嫡流をみてみると、以下のようになります。

長清―長経―長忠―長政―長氏―宗長―中興・貞宗―政長―長基―長秀―政康(ここで府中小笠原家と分かれる)―宗康―光康―家長―家基―貞忠―信貴―信嶺―信之―政信(徳川家に臣従)―貞信(越前勝山入封)―信辰―信成―信胤―信房―長教―長貴―長守(明治維新)―長育(子爵叙任)―勁一―牧四郎―長定(終戦)

小笠原長清

小笠原氏は清和源氏の後裔である甲斐源氏加賀美遠光の二男長清からはじまる由緒ある家柄です。

そのはじまりは、長清が甲斐国小笠原村(山梨県巨摩郡櫛形町)に本拠を置きましたので、地名を姓としたことによります。

そして長清は、父遠光とともに源頼朝の挙兵に応じて戦功をたてましたので、遠光は文治元年(1185)源氏六人受領の一人として信濃守に任じられました。

「名高百勇伝 源頼朝」(歌川国芳1843~44、大英博物館)の画像。
【「名高百勇伝 源頼朝」歌川国芳-184344、大英博物館】

さらに承久の乱では、長清は東山道の大将として軍功を立て、阿波の守護職をあてがわれたのです。

ちなみに、阿波守護職は長清の子・長経を経て、さらにその子・長房の子孫に代々伝えられて、元弘に至るまでに続きました。

そして、その一族が阿波で勢力をのばして阿波三好氏となって、戦国時代に活躍しています。

小笠原家の信濃入り

いっぽう、長経・長忠に連なる嫡流は、長経が将軍源頼家の近臣として比企の乱に連座したことから北条氏に遠ざけられて、勢力を広げることはありませんでした。

しかし、由緒ある御家人として武田家と並んで鎌倉幕府に仕え、とくに騎芸乗馬礼法の家として重んじられたのです。

その後、元弘の乱のとき、北条氏に従って笠置攻めに参加しました。

さらに、足利尊氏が挙兵するとこれに応じて軍功をたてて、信濃守護に任じられましたので、これ以降は信濃に地盤を置いています。

伝足利尊氏像(広島県浄土寺蔵)(Wikipediaより20210526ダウンロード)
【伝足利尊氏像(広島県浄土寺蔵)(Wikipediaより)】

小笠原貞宗

そして、宗長が信濃国伊奈郡松尾館に拠点を置きましたが、ここで正応5年(1291)貞宗が生まれました。

貞宗は足利尊氏に従って東西転戦の生涯を送って家名をあげて、小笠原家中興と呼ばれています。

信濃守護職

室町時代に入ると、伊奈伊賀良荘や信濃春近領など北条氏の遺領を守護領として信濃支配に乗り出します。

しかし、村上・諏訪・高梨などの豪族が反抗して領国経営はうまくいきません。

さらに、守護職が一時期斯波氏や幕府直轄となるなど、守護として安定した地位を得ることはできませんでした。

小笠原家の分裂

さらに嘉吉2年(1441)からは家督をめぐって一族の内紛に発展し、伊那松尾の光康と府中の持長が抗争を続けることとなります。

この内紛を「嘉吉の内訌」とよんでいますが、ここから小笠原家は府中に本拠を置いた府中小笠原家と、伊那松尾に本拠を置く松尾小笠原家に分裂しました。

戦国時代になって甲斐から武田信玄が信濃に侵攻すると、松尾小笠原家の信嶺は信玄に属して伊那松尾城の回復に成功します。

いっぽう、府中小笠原家の長時は信玄と戦って敗れて越後長尾景虎のもとに走り信濃を追われました。

ちなみにその後、松尾小笠原家が越前勝山に入封しますが、府中小笠原家の宗家は豊前国小倉藩主に、その支流が播磨国安志藩主と肥前国唐津藩主となっています。

「武田信玄像」(『日本近世名画大観 上巻』恩賜京都博物館編(中島泰成閣出版部、1941)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「武田信玄像」『日本近世名画大観 上巻』恩賜京都博物館編(中島泰成閣出版部、1941)国立国会図書館デジタルコレクション】

今回は名門小笠原家の歴史をみてきました。

名門とはいえ、権力争いに巻き込まれたり、内部抗争が激しかったりして、大きく発展するには至っていません。

次回は、松尾小笠原家の関ケ原をみてみましょう。

《今回の記事は、『日本地名大事典 長野県』『国史大辞典』に基づいて執筆しました。》

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