【東京・上野の東京国立博物館庭園の茶室・春草廬を寄贈した人・松永安左エ門(安左衛門)】
6月16日は、昭和46年に「電力の鬼」と呼ばれた電力実業家の松永安左エ門が亡くなった日です。
安左エ門の人生は、まさに波乱万丈。
そこで、彼の生涯を振り返り、現在へのメッセージを探ってみましょう。
最初の大失敗まで
松永安左エ門(まつなが やすざえもん)は、明治8年(1875)12月1日、長崎県の壱岐島・石田郡石田村印通寺浦、現在の壱岐市石田町印通寺浦で、二代目松永安左エ門を父に、ミスを母に生まれ、亀之助と幼名を付けられました。
明治22年(1889)慶応義塾に入学するものの、明治26年(1893)に父の死により帰郷、家督相続をして安左エ門を襲名します。
明治28年(1895)に慶応義塾に再入学するものの中退し、一時期日本銀行に勤めました。
その後、福沢桃介に誘われて明治35年(1902)には神戸で木材や石炭を取引する福松商会を設立し、石炭商としての地位を固めました。
ところがなんと、株式投資で失敗して無一文となってしまいます。
電力経営者としての成功と挫折
明治42年(1909)に再起、桃介と組んで福岡市に福博電気軌道を設立して専務に就任すると、北九州圏の企業を次々と合併して九州電燈鉄道を創立しました。
安左エ門は、顧客サービスを徹底したうえ、水力と火力を併用する電源開発、低コストの資金調達、計数に立脚した合理的な企業会計処理方式を開発するなど、電力経営の近代化を実現したのです。
大正11年(1922)には桃介に乞われて名古屋電燈の後身である関西電気を合併して五大電力の雄である東邦電力をつくり上げて副社長、さらに昭和3年(1928)社長に就任します。
安左エ門は、調査企画活動の重視、技術研究成果の大幅な採用など、経済合理性を尊重する経営理念を実践し、優れた電力経営者として高く評価されるようになりました。
昭和恐慌の時期には、持論の超電力連係による電力運営一元論にもとづく自主統制案を提案したものの、政府は逆に電力の国家統制構想を強引に推進して、昭和14年(1939)に日本発送電を成立させたのです。
安左エ門はこの流れに終始反対し続けましたが、国家管理が急速に拡大強化された昭和17年(1942)に、東邦電力を解散して全事業から引退しました。
復活
ところが敗戦後、GHQは電力の国家管理体制の解体を指示し、電力再編成が大きな課題となったのです。
そこで安左エ門は、乞われて昭和24年(1949)11月に電気事業再編成審議会の会長に就任します。
すると、日本発送電―九配電体制を解体して、全国九ブロックに発送電一貫経営の民間会社を配置するという松永案を、朝野の猛反対を押し切って推進し、「電力の鬼」と呼ばれるようになりました。
翌昭和25年(1950)11月に電気事業者再編令と公益事業令が公布、12月15日に施行されると、12月からは委員長代理として公益事業委員会をリードしてブロック別に設立された新電力会社の経営基盤を強化して、九電力体制を構築しました。
昭和27年(1952)に公益委員会が解散すると、翌年には電力中央研究所を設立して理事長に就任するとともに、日本経済の将来構想に関して数多くの提言をまとめた産業計画会議の委員長を務めるなど、政財界で多彩な活動を続けました。
昭和46年(1971)6月16日に、慶応大学病院で死去、享年95でした。
また、戦時体制への移行の中で一時引退に追い込まれた晩年には、茶の湯にまい進して名声をあげるとともに、『歴史の研究』で名高いイギリスの歴史家A・J・トインビーと交友を持ったこともよく知られています。
戦後は復活して、広い視野に立って日本の高度成長を電力面から支えるシステムを作り上げたのは、先ほど見たところですが、茶の湯で培ったものの見方や人脈、そしてトインビーから学んだ俯瞰的歴史観が生かされているのです。
こうして松永安左エ門みると、失敗しても大丈夫、むしろ失敗こそが成長するチャンスなのだと身をもって教えてくれます。
長いデフレから、相次ぐ災害もあって日本国のシステム全体が危機に瀕する現在こそ、松永安左エ門に学ぶべきことが多いのではないでしょうか。
松永安左エ門と地域のかかわり
松永安左エ門は、還暦を迎えたときに茶道を志し、耳庵と号していましたが、昭和17年(1942)に一時引退した後は埼玉県柳瀬の山荘で茶の湯三昧の生活を送ります。
このとき柳瀬荘内に移築されたのが、茶室・春草廬でした。
この建物は、もともと江戸時代に河村瑞賢(1618~1699)が摂津国淀川改修工事の際に建てた休憩所だったもの。
その後、大阪から原三渓(1863~1939)の横浜・三渓園に移されていたものを、昭和12年(1937)に埼玉県所沢市にある柳瀬荘に移したのです。
昭和23年(1948)に柳瀬荘が東京国立博物館に寄贈されたことにより、昭和34年(1959)に現在地に移築されています。(東京国立博物館Webサイトより)
松永安左エ門にみる失敗の活かし方
ここまでみてきたように、松永安左エ門の人生は、まさに波乱万丈でした。
50歳になって英語習得の必要を感じると、チャンドラ・ボースを訪ねて英語を学んだというエピソードもあるように、安左エ門にはすさまじい行動力があるいっぽうで、失敗も幾度も経験しています。
明治41年(1908)には一獲千金を狙った株式投資で大失敗して無一文となりました。
この失敗により、堅実な経営だけを行って投機的利益は追わない、と固く決意した安左エ門は、福沢桃介の助けを得て九州で再起し、失敗で得た近代的合理的経営を実践して飛躍をとげています。
安左エ門の生涯をみると、失敗は成功のチャンスでもあることが よくわかります。
失敗を成功へとかえるには、謙虚に失敗に学ぶことはもちろんですが、どんなときにも前向きな行動力を失ってはいけないのです。
(この文章は、『転換日本の人物風景』斎藤貢(大東書房、1932)、『先人に学ぶ』石山賢吉(千倉書房、1932)、東京国立博物館Webサイト、および『国史大辞典』『明治時代史大辞典』の関連項目を参考に執筆しました。)
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