江戸っ子大好き!大相撲 両国の街と大相撲

「勧進大相撲土俵入之図」(一恵斎芳幾(丸屋鉄次郎、安政6年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「勧進大相撲土俵入之図」一恵斎芳幾(丸屋鉄次郎、安政6年)国立国会図書館デジタルコレクション】

裸の男が素手で力競べをする〈力くらべ〉の流れをくむ相撲は、日本で最も古くから行われてきた競技の1つです。

そして現在、相撲の最高峰である大相撲は、日本のみならず世界中で人気となっているのはみなさんもご存じの通り。

長い相撲を持つ日本の伝統行事、国技として日本を象徴する存在でもあります。

ところで、土俵はいつからあるのでしょうか? 行司ってどうしてあんな衣裳なのでしょうか? 力士はどうしてまわしだけ?などなど、大相撲には不思議なことがいっぱいあります。

これから相撲にまつわる数々の謎を、歴史をひも解いて解いていきたいと思います。

そも前に、相撲と相撲の聖地・両国の街との素敵な関係を見ることからはじめたいと思います。

大相撲 目次大相撲とは?[相撲の歴史]①相撲誕生と相撲節成立②鎌倉・室町・戦国時代の相撲③織田信長と相撲④大相撲の成立⑤近代の相撲⑥現在の相撲

「(勧進大相撲)」(勝川春亭、1796 大英博物館)の画像。
【「(勧進大相撲)」勝川春亭、1796 大英博物館】

古代には朝廷行事として相撲節(すまいのせち)が行われて、相撲は国家行事の一部でした。(「相撲の誕生と相撲節の成立」参照)

そして、相撲節が廃絶した後も相撲は大いに人気を集め、日本各地で盛んに行われるようにねっていきます。(「鎌倉・室町・戦国時代の相撲 」「織田信長と相撲」参照)

江戸時代に入ると、相撲故実として相撲のルールや様式が整備されるとともに、天明・寛政期(1781〜1801年)に江戸に相撲会所が作られ、職業力士を組織した「大相撲」が成立しました。(「④大相撲の成立」)

幕府の公許を得たことで大相撲はおおいに発展し、江戸っ子からも絶大な支持を集めたのです。(「近代の相撲」現在の相撲」参照)

前近代的なまげを結って、見るからに古い大相撲ではありますが、外国人力士の採用(高見山・小錦)や海外巡業など国際化への対応を行った結果、日本の伝統的スポーツとして世界中で人気を博しているのです。

現在の大相撲は日本相撲協会が主催する相撲興行です。

年6場所制がとられていますが、これは本場所を1年に6回行う制度で、1月場所(初場所)・5月場所(夏場所)・9月場所(秋場所)を東京両国の国技館、3月場所(大阪場所)を大阪市府立体育館、7月場所(名古屋場所)を名古屋市金山体育館、 11月場所(九州場所)を福岡スポーツセンターで行っています。

このほかにも地方巡業が行われて力士たちが全国を回っているのです。

また現在、力士たちの所属する相撲部屋は現在47あり、その多くが国技館周辺に集中しています。

力士や親方は、地方場所開催時や地方巡業中以外の1年の大半の時期を部屋で過ごしますので、両国の町ではよく力士や親方の姿を見かけることがあります。

そして、相撲部屋では朝稽古が行われるので、稽古が終わって休む力士やまわしを干す姿、買い物する姿など、普段着の力士の姿を見ることができるのです。

かつては朝稽古を公開する部屋も多かったのですが、現在は制限される場合が多くなってしまいました。

しかし、町には飲食店はもちろん、や身の回りの物を扱う店の中には力士や親方の通うところが多くあります。

「鳴滝忠五郎」(勝川春亭、大英博物館)の画像。
【「鳴滝忠五郎」(勝川春亭、大英博物館)】

そして、本場所開催中の両国は、国技館周辺だけでなく町全体が華やかな雰囲気に包まれます。

また、相撲の本場・両国国技館らしく、「ロボット相撲」全国大会までもがこの地で開催されているのです。

まさに両国は相撲の本場、相撲と共にある街なのです。

相撲とともにある街・両国は鳥蔵柳浅と隅田川を隔てた隣町です。

ぜひ一度、二つの街をのぞいてみてください。

大相撲 目次大相撲とは?[相撲の歴史]①相撲誕生と相撲節成立②鎌倉・室町・戦国時代の相撲③織田信長と相撲④大相撲の成立⑤近代の相撲⑥現在の相撲

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