前回みたように、秀吉のもとで熊野を統一した堀内氏は関ケ原で西軍についたために新宮を去りました。
そこで今回は、関ケ原の合戦後に入国した浅野氏の時代をみてみましょう。
浅野氏時代
慶長5年(1600)9月の関ケ原の戦いで、紀伊国の堀内氏を若杉氏は西軍についたために改易となり、東軍についた和歌山の桑山一晴は和泉国へと転封となりました。
そして10月は、浅野幸長が紀伊国に入国します。
幸長は和歌山に入ると、一族で重臣の浅野左衛門佐知近を田辺に知行3万石で、浅野右近太夫忠吉を2万8,000石で新宮に配置したのです。
浅野幸長
豊臣秀吉の夫人・寧々のちの北政所の義兄だった浅野長政の長男として天正4年(1576)に生まれました。
母のやや、のちの長生院は寧々の妹であったとも言われています。
天正18年(1590)小田原の役に父長政に従って出陣して初陣を飾ると、朝鮮出兵でも活躍し、加藤清正、福島正則らとともに豊臣家の武断派として知られるようになりました。
関ケ原の戦いでは東軍につくものの、南宮山に陣をはる毛利秀元・安国寺恵瓊らの備えとして垂井に布陣して本戦には加わっていません。
そして慶長5年(1600)10月にこれまでの軍功を賞されて紀伊国和歌山37万6,560石をあたえられたうえ、慶長13年(1608)には幸長の娘・春姫が徳川家康9男で尾張徳川家初代・徳川義直と婚姻して徳川家の姻戚となっています。
浅野忠吉
忠吉は天文15年(1546)尾張に生まれ、はじめ長信長に仕えましたが、のちに従兄の浅野長政に仕えます。
文禄2年(1593)に長政が甲斐へ移封となると、同じく一門の浅野良重とともに宿老として長政を助けました。
長政が慶長4年(1599)に隠居して家督を幸長に譲ると、忠吉もそのまま行長に仕えます。
関ケ原後に幸長は和歌山に入封するものの、慶長18年(1613)8月に和歌山で病死。
幸長が没すると、幸長の弟で長政次男の長晟と三男長重の間で家督争いが勃発しましたが、忠吉は長晟を推して家督を相続させたのです。
こうして忠吉は、熊野地方の中核として町ができつつあった新宮周辺に知行地を与えられています。
さらに忠吉は、牟婁郡を中心とした郡代の任に当たり、土豪達の勢力がいまだ残る熊野地方ににらみを利かす役割を担いました。
浅野長晟
豊臣家の親戚筋にあたる浅野家が和歌山37万石の大大名となったのは、浅野幸長の非凡な能力によるのは誰もが認めるところでしょう。
しかし、その幸長が慶長18年(1613)に38歳で急逝し、そのあとを行長の実弟・長晟が継ぎました。
長晟は、元和5年(1619)に安芸国広島へ国替えとなるまでの6年間、紀州国主として激動の時代を乗り切ることになります。
長晟時代の主な出来事といえば、大坂の陣と土豪の一揆、幕府に命じられた数々の御普請手伝い、和歌山城普請と城下町の整備、検地など多岐にわたるものでした。
この中で、まずは熊野と関係が深い検地と大阪の陣および土豪の一揆についてみてみましょう。
慶長検地
事の発端は、浅野幸長が紀州に入封してまもない慶長6年(1601)6月から10月にかけて領内の検地を行ったことにあります。
この検地は、例えば牟婁郡下尾井で、天正検地で33石8斗5升だったものが148石7斗7升7合となったように、大幅に村高が増える結果となりました。
これは、天正検地では地元が石高を記した台帳を提出して行う差出検地だったのに対して、慶長期は実測による精度の高いものとなったからです。
逆に、地域の土豪達からすると、自分たちの取り分が無くなって、経済的に苦境に立つことになったのです。
このことが、着々と領国経営を進める浅野家の前に、大きな問題となって立ちはだかります。
次回は、大坂の陣と北山一揆についてみてみましょう。
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