前回は平安時代後期に熊野詣が盛んになるまでをみてきました。
そこで今回は、中世の熊野三山をみてみましょう。
熊野別当家
前回みたように、平安時代後期に熊野詣が盛んになると、熊野三山を現地で統括する熊野別当が誕生します。
第21代別当となった湛増は、熊野水軍を率いて武将としても活躍しました。
治承4年(1180)にはじまった治承・承平の乱では、諸国の源氏に先駆けて反平氏の兵をあげ、壇ノ浦に出陣し、源氏の勝利に大いに貢献したのです。
しかし、承久3年(1221)の承久の乱では、湛増の孫で熊野別当の快実が後鳥羽上皇の倒幕運動に協力したことで、鎌倉幕府に壊滅させられてしまいました。
こうして別当家が衰退するとともに、熊野への上皇や女院の参詣がなくなって、熊野は経済的に大きな打撃を受けたのです。
しかし、中世には地方の武士、さらには民衆が独自に熊野詣を行うようになって、「蟻の熊野詣」といわれるほど熊野詣が盛んとなりました。
南北朝期の熊野
元弘元年(1331)後醍醐天皇が二度目の倒幕を計画するも失敗に終わるものの、これに応じた楠木正成が赤坂城に籠ります。
そして、討幕は熊野に入った護良親王によって続けられたので、元弘2年(1332)熊野山に討幕の令旨が届けられたのです。
こうして南北朝の騒乱が熊野まで及びますが、宮方・武家方の双方から熊野別当への懐柔策がとられていました。
熊野七人衆
室町時代に熊野信仰が広がり、民衆による熊野詣が盛んになると、これを主導した御師・先達を支配する三山の勢力が力を伸ばしてきます。
なかでも新宮衆徒の力が増して、勢力が衰えた熊野別当家にとってかわったのです。
こうして熊野三山と熊野地方一帯は、宮崎・簑島・矢倉(のちの鵜殿)・滝本・中曽(中脇)・芝・楠(新宮または新)の「七人衆」が支配することとなりました。
堀内氏の台頭
寛正元年(1460)になると、今度は熊野七人衆を抑えて堀内氏が台頭してきました。
堀内安房守氏虎は、天文年間(1532~55)に現在の三重県で勢力を誇った有馬氏の拠点、有馬城と木本の鬼ヶ城などを攻略します。
そしてついに有馬孫三郎を討ち取ると、氏虎の子・氏善が有馬氏に養子として入りったうえに有馬城主となって、有馬氏の勢力を取り込むことに成功したのです。
その後、氏虎が没すると氏善が堀内氏を継いでからも、堀内氏はその勢力を西へと伸ばしていきました。
こうしたなか、天正13年(1585)豊臣秀吉の紀州攻めでは、氏善はいちはやく和を講じて秀吉傘下に入り、領国を安堵されて2万7,000石の大名となったのです。
さらに、天正19年(1591)には秀吉から熊野地方の支配を許されると、新宮周防守を暗殺するなどして、ついに七人衆を支配下におくことに成功します。
その後は、那智浜の宮の勝山城を、ついで古座の佐部城を攻め落としました。
さらに北方の曾根荘の曾根弾正を配下とし、三木に勢力を持つ三木新之丞を攻略したのです。
こうして、堀内安房守氏善は、東は長島郡錦浦(三重県)、西は太田荘田原(古座町)、北は本宮町までを支配しました。
大名堀内氏善
ついに熊野地方を治める大名となった堀内氏善ですが、その内実はどうなっていたのでしょうか。
堀内氏の禄高は4万590石(最盛期は6万石)、家中は278人だったといいます。
家老には1,500石取りの尾呂志伝蔵、同格で年寄の芝次郎衛門、その下に与力・番頭侍大将・旗大将・郡代・大目付勘定奉行・船奉行といった役職を設けていました。
これに加えて、鉄砲50丁、弓20張りと、これを預かる同心が100人いたといいます。
さらに氏善は、文禄4年(1595)に、十三カ条からなる「堀内安房守定」を家臣に申し渡して、家中の規律を定めたのです。
こうして氏善は熊野地方を統治することに成功すると、それまでの和田城から堀内新宮城に拠点を移しました。
北山征伐
ところが、天正14年(1586)8月には熊野地方一帯の山間部で一揆が起こります。
これは、紀伊国全体で行われた太閤検地(天正検地)で経済基盤を脅かされた土豪達が中心となって起こしたものでした。
これを羽柴秀長みずから出陣したうえに、秀長の家臣吉川平介が圧倒的な軍勢で攻め込んで力をもって鎮圧したのです。
この一揆討伐は北山征伐と呼ばれています。
さらに敗北した一揆勢の残党が山奥に逃げ込むと、徹底的に討伐されたのでした。
ここまで新宮を中心に熊野地方の中世をみてきました。
次回は、豊臣政権のもとで大名となった堀内氏と熊野水軍の活躍をみてみましょう。
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