前回みたように、熊野はかつてないほどの繁栄を謳歌するものの、連続して恐慌が到来すると、今度は目を覆うばかりの衰退に至るまでになりました。
そこで今回は、苦境に立つ熊野と新宮に復興への光がさした熊野古道の世界遺産登録までをみてみましょう。
東南海地震と南海地震
昭和20年(1945)8月15日の終戦により、長い戦争の時代はようやく終わりを告げました。
ところが、昭和21年(1946)12月21日、紀伊半島と四国沖でマグニチュード8.0の大地震が発生します。
この南海地震では、新宮を津波と火災が襲って、死者58人・負傷者245人、全壊家屋600、半壊家屋1,408、全焼家屋2,398、罹災者8,309という甚大な被害尾を出しました。
昭和19年(1944)12月7日には東南海地震が起こって大きな被害を出したばかりでしたので、新宮は戦災と震災という二重の復興が課されることになったのです。
戦後の新宮
こうして熊野地方は次々と大きな打撃を受けて地域経済が深刻な状況に陥るなか、さらなる打撃が襲います。
熊野の山中に国道が整備されるとともに、北山・十津川に巨大なダムが建設されて、熊野川での筏流しが衰退したのです。
木材輸送が水上輸送からトラックへと移行する中で、昭和40年(1965)には、水面貯木場が埋め立てられて姿を消しています。
さらに外材の輸入による木材の価格低迷と、石油への燃料転換による炭の需要激減によって、長く熊野を支えてきた基幹産業の林業と炭薪生産に深刻な不況が訪れたのです。
また、地域経済の深刻な不振は、都市部への人口流失を招き、熊野地方で過疎化が急速に進むことになりました。
熊野古道
こうしたなか、2000年には「熊野古道」が国の史跡に指定され、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されました。
道路が世界遺産となったのは日本ではじめて、世界でもスペインの「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」に次いで二例目です。
これは、熊野詣の衰退とともに荒廃した古道を、熊野の人々が長年にわたって地道に整備や復元に取り組んだ賜物でした。
熊野古道の世界遺産登録は、熊野三山を中心とする独特の宗教空間の歴史的重要性と、地域の人々による保全・保護の取り組みが評価されたといえるでしょう。
こうして世界に認められたことで、観光資源としての経済的効果のみならず、熊野住民たちの自信回復にもつながっているのです。
コロナ禍で中断したものの、これからも世界中から数多くの人々が熊野を訪れて、その豊かな自然と文化に驚嘆することになるでしょう。
この文章を作成するにあたって、以下の文献などを引用・参考にしました。
また、文中では敬称を略させていただいております。
引用文献など
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『新宮町郷土誌』和歌山県東牟婁郡教育会第一部会 編集・発行、1932
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『人事興信録 第11版改訂版 下』人事興信所編(人事興信所、1939)
『人事興信録 第12版(昭和14年)下』人事興信所編(人事興信所、1939)
『華族名簿 昭和14年5月1日調』(華族会館、1940)
『人事興信録 第13版 下』人事興信所編(人事興信所、1941)
朝日新聞・昭和16年(1941)6月10日付夕刊東京版
『人事興信録 第14版 下』人事興信所編(人事興信所、1943)
朝日新聞・昭和34年(1959)6月16日付朝刊・財政欄
『議会制度七十年史 第1 貴族院議員名鑑』衆議院・参議院編(大蔵省印刷局(印刷)、1960
朝日新聞・昭和44年(1969)4月24日付朝刊・企業欄会社人事
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『八甲田山死の彷徨』新田次郎 新潮社 1978.1.30
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『大逆事件と知識人 ―無罪の構図』中村文雄(論創社、2009.4.30)
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『幕長戦争』日本歴史叢書 新装版、三宅紹宣(吉川弘文館、2013)
「新宮藩」三好國彦『藩史大事典』第5巻近畿編〔新装版〕木村礎・藤野保・村上直、雄山閣2015.12.25
『八甲田山消された真実』伊藤薫 山と渓谷社2018.2.1
『大逆事件 ―死と生の群像』田中伸尚(岩波書店、2018.2.1)
新宮市Webサイト
次回は、新宮水野家浄瑠璃坂上屋敷を歩いてみましょう。
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