前回、小笠原子爵家を継いだ勁一が、前途を期待されつつも、スペイン風邪のパンデミックによる突然の死を迎えるまでをみてきました。
そこで今回は、急逝した勁一の跡を継いだ牧四郎についてみてみましょう。
小笠原牧四郎(まきしろう・1893~1925)
子爵小笠原長育の三男として、長育が牛込区牛込北町13番地、現在の新宿区北町13番地付近に邸宅を構えていた明治26年(1893)4月8日に生まれました。
牧四郎が1歳のころに父・長育が急逝し、家督を継いだ兄・勁一に従って、旧領国の福井県勝山町に移っています。
その後、進学のために上京し、大正7年(1918)東京外国語学校馬来語科、現在の東京外国語大学マレー語科を卒業したのです。(『人事興信録 7版』)
『東京外国語学校一覧 従大正7年至8年』によると、大正7年度の馬来語科卒業生10名のうち、牧四郎の成績は5番目でした。
馬来語習得
牧四郎が馬来語(マレー語)を学んだ背景を探ってみましょう。
小林和夫は「大東亜共栄圏構想と国民のアジア語学習 -馬来語の事例-」でこう述べています。
「1930年代までの馬来語学習者は、南進論の影響を強く受けていた。馬来語学習者は、何よりも南洋飛躍のため、そして富源の地・南洋で商機をつかみ実利をあげるための現実的・功利的な手段として馬来語を学習した。」
牧四郎は、兄の勁一が小笠原家を継いで早稲田大学政治学科に進むのをみて、兄とは違った活躍の場を求めていたのかもしれません。
じっさい、牧四郎が卒業する前年には、馬来語科は馬来語部貿易科と拓殖科に改編されていることも(東京外国語大学Webサイト)、牧四郎のいだいた野望の傍証とみてよいでしょう。
牧四郎の結婚と襲爵
叔母・麗子が嫁いだ先の越前国大野藩・土井利剛子爵の二女・富貴と結婚し、長女恵美(大正12年(1923)2月生)と長男・長定(大正14年(1925)1月29日生)の子宝にも恵まれました。
ところが、大正8年(1919)11月3日に兄の勁一がスペイン風邪で急逝してしまい、11月29日に襲爵することになったのです。
こうして、牧四郎の習得した馬来語を生かして南方で活躍する野望は潰えてしまいました。
芝公園
襲爵時は東京府豊多摩郡代々幡町字代々木472番地、現在の渋谷区西原2丁目18~21番地付近に邸宅を構えていました。
その後、大正13年(1924)ころに芝区芝公園11ノ7、現在の品川区芝公園2丁目5番地付近に移っています。
そしてこの芝公園の土地こそ、横浜若尾家の当主・若尾幾造の邸宅があった場所なのです。
どうして牧四郎は若尾家の邸宅で暮らすことになったのでしょうか?
そこで、若尾家と小笠原子爵家の関係を改めてみてみましょう。
牧四郎と若尾家
父・長育の代に勁一の叔母・詮子が二代目若尾幾造に嫁いだことにはじまります。
その後さらに、叔父・粲四郎が明治29年(1896)1月に若尾民造氏の養子となって、両家は強い結びつきが築かれたのは第34回「長育の華麗なる交遊」でみたところです。
ここまで、兄・勁一の急逝により、急遽襲爵した牧四郎についてみてきました。
牧四郎は叔父である若尾幾造の芝公園邸宅に同居するなど、深いつながりを持つようになっていたのです。
そこで次回は、このころの若尾家についてみてみましょう。
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