前回みたように、林毛川の藩政改革がはじまって、藩に活気が戻りつつあるまでになりました。
しかし、なんといっても勝山藩最大の課題は、困窮しきった藩財政の打開にあることはいうまでもありません。
そこで今回は、毛川の藩財政改革の切り札ともいえる産物改所の設置をみてみましょう。
借金まみれ
勝山藩は小笠原家が入封して以来、藩財政ひっ迫に苦しんできました。
そしてこれは、「如何なる明智の人出候共、一時莫大の御借財を埒明候事は、万々相成らず」とまでいわれる、もはやどうしようもない問題と誰もがあきらめていたのです。
諦めたからといって、もちろん状況が改善することはありません。
文化5年(1810)から安政5年(1858)までの約50年間で、町方に求めた御用金と借用金は、あわせて14回15万両を超えるまでになっていました。
藩の借金の負担は水呑百姓にまで及ぶ過酷なものとなり、御用金借用金のために没落する者も見られる始末になったのです。
煙草改会所の設立
そこで毛川は、もともと藩内の産物を他所で売ることには反対でしたが、背に腹は代えられず、嘉永6年(1853)11月4日に「煙草改会所」を設立したのです。
この煙草改会所というのは、これまで農村で生産された煙草を町や他所から来た仲買人に売っていました。
これを、強制的に会所に出荷させて品質を管理・保証したうえで、京・大坂方面に直送して売買することで利益をあげようというもの。
ここで利益が出れば、その一部が藩の収入となって藩が潤いますし、仲買がなくなる分、農家の売り上げも増えるという算段です。
じつは、各地で同じようなしくみが試みられますが、販売できる人に恵まれなかったり、所領が錯綜していたりして、うまくいく場合はそう多くはありません。
しかし勝山の場合、元締に任じられた町年寄格の横山七郎衛門たちが販路拡大におおいに奮闘したのです。
もともと勝山がタバコ栽培に向いているという好条件によって、品質が高かったことも有利に働きました。
こうして、嘉永7年(1854)には敦賀での刻煙草売捌所に敦賀港の木綿屋鹿七を指名するまで拡大します。
さらに安政期に入って茶屋伝四郎が蝦夷地松前にまで販路を伸ばす盛況ぶりとなったのです。
産物改会所に発展
こうして「煙草改会所」は発展して、ついに安政4年(1857)3月、「産物改会所」へと発展を遂げます。
これは、煙草で開拓した販路にのせて、煙草のほかにも糸・菜種なども会所で管理し、販売するものでした。
さらに、より安定した収入を得るために、堺中浜の商人具足屋半次郎を「勝山諸物産御蔵元」に指定し、同時に藩の江戸入用を一括して引き請けさせることとしたのです。
さらに横浜開港による貿易の開始とともに、生糸の積極的売り出しを図るまでになっていきます。
こうして、小藩ながら産物改会所は成功を収めて、藩に収益を納めるまでになりました。
勝山のたばこ産業
毛川の指導によって勝山の産物は大いに名声を高め、元治~慶応年間(1864~68)ころは、刻み煙草年50万斤、生糸350貫の生産をあげています。
さらにのちになりますが、明治33年度(1900)には勝山を中心とする大野郡の煙草生産が12万4,000貫、34万5,000円、製造業者110人、職工900人と、福井県下の7割を算出するまでになったのです。
さらに、辛みの強い「鬼ごろし」は勝山煙草を代表するブランドとなって全国の農山魚村で人気を博しました。
また、生糸も明治11年(1878)海外輸出に成功すると飛躍的に発展し、年間2,000貫もの糸を生産するまでになっています。
こうして、毛川の育てた煙草と生糸を中心とする産業は、近代の勝山を支える地域の基幹産業へと発展していくのです。
次回は、長山講武台の建設と、藩政改革のゆくえをみてみましょう。
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