福江直り【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編㉓】

前回までみてきた五島家の存亡の危機・大浜主水事件ですが、その背景には藩主盛利が領主権確立のために手段を択ばず強硬に進めた「福江直り」への反発がありました。

これほどまでに藩主盛利がこだわった「福江直り」とはなんなのでしょうか?

また、在郷領主たちはどうしてこれに反抗したのでしょうか?

今回はこの「福江直り」に謎に迫ってみることにしましょう。

「福江直り」とは?

まず「福江直り」とは、島内各地にそれぞれ自前の所領をもって分立していた在郷領主たちを、福江の城下町に集住させる政策です。

これまでは、正月元旦から十五日まで江川城における年賀参列を果たせば、それで臣従したことになっていました。

このように島内の領主たちがなかば自立した状況では、家臣の統制が困難だったのはいうまでもありません。

こうしたわけで、住む場所を制限するとともに監視することで、在郷領主たちを領地から切り離すとともに、彼らの持つ領地内での権力を藩主に集約することを目指したのでした。

またあわせて、武士と農民をはっきりと区別する「兵農分離」も一気に行うことも目指しています。

福江市街地、昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M415-2-83〔部分〕) の画像。
【福江市街地、昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M415-2-83〔部分〕)  城下町の面影をみることができます。】

度重なる挫折

そこで、藩主盛利は襲封して間もない慶長18年(1613)に、貞方雅貞(もと平田甚吉)を惣役にすえて「福江直り」にかかりました。

ところが、慶長19年(1614)8月15日に居城の福江・江川城が全焼し、城下の家臣宅も類焼して「福江直り」は振出しに戻ってしまったのです。

その後も、元和元年(1615)の大坂夏の陣で中断、元和3年(1617)には石田浜に石田陣屋を築いてようやく再開。

ところが、元和5年5月(1619)には大浜主水事件が勃発して中断と、中断を繰り返して全く進まない状況が続きます。

元和7年(1621)には大浜主水事件が幕府の裁可でいちおうの解決をました。

しかし、事件の後始末もあって、元和12年(1626)までは藩主盛利が江戸在府となったことで再開できませんでした。

家臣の座列決定

そして、盛利が領国に帰ると、幕府から領主権を認められたことを背景に、なかば強引ともいえる形で一気に進めます。

ここに、ようやく寛永11年(1634)末に「福江直り」が完了しました。

こうして、家臣百七十余家が福江に屋敷を構えることになりました。

さらに寛永12年(1635)には領内総検地をおこなって家臣の知行高を確定させると、寛永16年(1639)には家臣知行高に従って座列を決定したのです。

座列の決定とは、家臣の地位の上下関係を確定させることですし、検地は在郷領主たちがもっていた領地の内実を藩主が把握することを意味していました。

つまり、五島藩領全域を、藩主が直接統治できるようになったのです。

徳川家光像(Wikipediaより20210831ダウンロード)の画像。
【徳川家光像(Wikipediaより) 「福江直り」に着手した時は二代将軍秀忠の治世、完了したのは三代将軍家光の治世でした。】

座列決定によって、中世以来の伝統を持つメンバーから外様衆系の家臣たちが上位になるという形で、新しい藩政の体制が確立しました。

今回みた「福江直り」に、譜代の家臣たちは前々回の大浜主水事件で激しく抵抗したのはどうしてなのでしょうか。(第21回「大浜主水事件・深掘り編」参照)

そこで次回は、五島家に絶対忠誠を貫いてきた青方家の当主・雅盛の主張から「福江直り」の内実をみてみましょう。

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