前回みたように、柳川藩最後の藩主立花鑑寛は、廃藩置県に伴って上京を命じられて柳川を離れるものの、隠居したこともあって7年後に柳川帰還の夢を果たします。
今回は、鑑寛の跡を継いだ寛治の時代をみてみましょう。
立花伯爵家初代 寛治(もとはる・1857~1929)
安政4年(1857)9月、柳川藩主立花鑑寛の二男として生まれました。
その後、明治6年(1873)兄鑑良の死去により家督を相続しています。
明治11年(1878)に父・鑑寛は柳川へと帰還しましたが、寛治は東京に留まりました。
そして学習院を経て津田仙設立の学農社農学校に入学します。
津田仙と学農社
津田仙は、我が国にはじめて西洋農業を紹介した人物で、明治キリスト教メソジスト派の教育者で、現在の津田塾大学を創設した津田梅子の父としても知られています。
天保8年(1837)に佐倉藩士の子として生まれ、のち幕臣津田栄七の婿養子となって家名を継ぎました。
そして蕃書取調所教授方手塚律蔵に蘭学を学び、伊藤貫斎などに英語を学びます。
慶応3年(1867)幕府遣米使節では随行員として渡米。
記憶して北越戦争に参加するものの敗れて東京に戻り、一時期日本最初のホテルである築地ホテル館に勤めたあと、麻布本村町で西洋野菜の栽培を始めました。
明治6年(1873)ウィーン万博に田中芳男に随行して参加し、その折にオーストリアの著名な農学者ホーイブレンクについて農法を学んで帰国、『農業三事』を刊行します。
「気筒」「偃曲」「媒助」の三方を唱えますが、このうち「媒助」が広く知られるようになりました。
そして明治9年(1876)1月学農社農学校を開校するとともに、雑誌『農業雑誌』を刊行します。
また、明治7年(1874)メソジスト派の婦人宣教師スクーンメーカーとともに青山学院女子部の前身となる女子小学校(翌年救世学校に改名)を創立したことでも有名です。。
残念ながら、津田の創設した学農社農学校は明治17年(1884)に廃止されて、存続期間はわずか8年でしたが、日本に西洋農業を広める役割を果たしました。
駒場農学校
寛治は学農社農学校、通称麻布学農舎を卒業したあと、駒場農学校に学びます。
駒場農学校は、明治10年(1877)に内務省が設置した欧米農法に関する高等教育機関で、明治14年(1881)4月の農商務省設立に伴ってその所管となりました。
ちなみに駒場農学校は、のちに東京農林学校、東京帝国大学農科大学へと発展しています。寛治はこれを卒業すると、大日本農会三田育種場に勤め場長補となりました。
農業は国家の根幹でしたので、農業振興はまさに華族にふさわしい職業とみていたのでしょう。
農事試験場開設の夢
寛治は、学農社農学校で学んでいたころから、内容が学問的で実地に沿っていないことに不満を持っていたといいます。
このため、下谷邸の一角に農場を開いて自分で耕作していましたが、寛治が農業の基本と考える水田をつくるにはあまりに手狭でした。
そこで、旧領柳川の中山で、肥沃で広い土地が売りに出ているのを知ると、これを入手して本格的な農事試験場を開設する計画を立てはじめます。
とはいえ、当時は華族が東京を離れて住むには、宮内省の許可を得る必要がありましたので、寛治の夢の実現にはもう少し時間が必要でした。
そこで次回は、寛治の夢の行方を追ってみましょう。
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