最後の殿様
明治維新前後、激動する時代に生きた殿様たちの姿を描く「維新の殿様」、今回は最後の大名・羽後矢島藩の生駒親敬です。
最後の殿様といえば、昭和の時代まで生き残った浅野長勲(安芸広島藩)や林忠崇(上総請西藩)の名が浮かびます。
しかし今回とりあげる生駒家の羽後矢島藩は明治新政府が設けた藩で、おそらく最後に誕生した藩なのです。
ではまず、生駒家の歴史から見ていきましょう。
なおこの文章は、暦年は明治政府が太陽暦を採用した明治5年12月以前は旧暦、以後は陽暦で記しています。
また、文中の敬称は省略させていただきました。
生駒家の歴史
戦国時代に美濃で生まれた初代親正は、つてを頼って尾張の織田信長に仕え、金ケ崎の戦いなどに参加します。
その後、羽柴(豊臣)秀吉仕えると数々の武功を上げて、三中老の一人となるまで信任を得ました。
秀吉から讃岐一国17万石を与えられた親正は、関ヶ原の戦いにおいて自身は次男を連れて西軍に参加する一方、長男一正を東軍に参加させ親兄弟で戦ってまで領国を守ります。
しかし、寛永14年(1637)、一正の孫、三代藩主高俊の代になると家臣同士の対立が激化、これが御家騒動に発展して生駒家は改易されてしまいます。
これが名高き「生駒騒動」で、生駒家は堪忍料として1万石で出羽の矢島(図①の赤い部分)に移されました。
しかもその後、与えられた所領1万石は、8千石と2千石の二家に分けられましたので、生駒家は大名ではなくなり、外様の旗本として江戸時代を過ごすこととなります。
こうして旗本となった生駒家は、領国に赴くことなく幕府から支給された江戸・下谷竹町の屋敷で暮らしていました。
生駒親敬襲名
武家の名門・生駒家ですが、子宝に恵まれず十二代親代(ちかのり)、十三代親愛(ちかよし)、十四代親道(ちかみち)と、他家から養子を迎えて当主としてきました。
そんな中、嘉永2年(1849)12月、十四代親道に待望の男子が生まれます。
その子は立派に成長し、親敬(ちかゆき)と名乗って安政2年(1856)に弱冠18歳で十五代当主を襲名したのでした。
親敬は「やさしく礼儀正しい穏やかな人で武芸を好んだ」、「重厚の風のある立派な人格者ですこぶるまじめ」、「よいことは率先してあたり、やり遂げる気迫のある人」などと伝えられています。
そして生駒家は外様とはいえ交代寄合(大名に準ずる旗本)としての家柄でしたので、親藩出羽上山藩松平信寶の四女江美を妻に迎えました。
親敬が家督を継いだ時代は、まさに黒船来航からはじまる激動の幕末と重なるところ。
経緯は分かりませんが尊王思想を抱いていた親敬、そんな一介の旗本に活躍の機会は巡ってくることは無かったようです。
これはおそらく、生駒家との縁のある大名に尊王藩が多かったことによるとみられます(⑧話参照)。
激動する時代の中で、彼は中川船番所勤務を命じられて相変わらずの穏やかな生活を続けていたのでした。
次回からはいよいよ、親敬が時代の荒波に漕ぎ出してゆく姿を見ていきたいと思います。
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