年の瀬に開かれる浅草歳の市と羽子板市は、江戸時代からの伝統を誇る年末の風物詩となっています。
ども、歳の市と羽子板市、二つの名前があるのはどうしてなのでしょうか?
そこで前回は、歳の市の由来を見てきました。
今回は、引き続いて浅草 歳の市の歴史を見ていきたいと思います。
【浅草羽子板市 目次】 その1:羽子板市の歴史(前編) / その2:羽子板市の歴史(中編) / その3:羽子板市の歴史(後編) / その4:羽子板ってなに?(前編) / その5:羽子板ってなに?(後編) / その6:羽子板市に行ってみました① / その7:羽子板市に行ってみました② / その8:ガサ市に行ってみました
浅草・歳の市の始まり
浅草で歳の市の基になったのは、恵比須の宮市です。
これはかつて漁村であったころの浅草で行われていた自然発生的な市でした。
江戸の町が作られて次第に発展すると、これに合わせて宮市も発展して浅草歳の市が成立したと考えられています。
ガサ市、羽子板市、蓑市?
浅草寺境内の広大な範囲に市が立つため、浅草の歳の市は商うものによって名がつけられていました。
注連飾りの店が集まる市の場所を「ガサ市」と呼んでいます。
これは、ガサガサと音がするからとも、ガサつく代物であったことから名づけられたようです。
この「ガサ市」は現代も正月飾りの業者向け市として続いているのです。【「ガサ市に行ってみました」参照】
同じく浅草観音の雷門から本堂までで羽子板が多く売られていたので「羽子板市」と呼ばれていました(『東京年中行事』)。
この「羽子板市」が現在まで残るとともに、開かれる市のほとんどが羽子板市になってしまったために、「浅草歳の市」を「羽子板市」とよぶことが一般的になっているのです。
またかつて、翌19日には雷門で「蓑市」が立ちました(『東都歳時記』、『画本東都遊』、『江戸府内絵本風俗往来』)。
しかし、明治時代に入って洋装が広まるにつれて蓑の需要が激減し、蓑市はなくなってしまったのです。
こうした様々な市が立つ歳の市は年末年始のものなら何でも売っているので「何やかや売り」とも呼ばれて親しまれていました。
『浅草寺志』には「十七日朝七時より仁王門をひらき、市人幷に参詣の諸人に出入りをゆるす。夜に至っても門を鎖す事なく、十八日の夜の四時を限りとす」と記されています。
このような市関係者や参詣者に対する浅草寺の粋なはからいは、市が単にモノを売り買いするだけの存在ではなく、人と人との交流の場として、また市の立つ機会を行楽も兼ねた娯楽として楽しんでもらおうという浅草寺のねらいが見て取れます。
このような場を提供したことが、当時の浅草歳の市の盛大さを示すとともに、後のさらなる隆盛を生むことにともになったのです。
ここまで江戸時代の浅草歳の市についてみてきました。
次回では、「歳の市」と「羽子板市」の関係について、改めてみていきたいと思います。
【浅草羽子板市】 その1:羽子板市の歴史(前編) / その2:羽子板市の歴史(中編) / その3:羽子板市の歴史(後編) / その4:羽子板ってなに?(前編) / その5:羽子板ってなに?(後編) / その6:羽子板市に行ってみました① / その7:羽子板市に行ってみました② / その8:ガサ市に行ってみました
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