ところで羽子板市ってなんですか? 羽子板市の歴史(後編)

前回まで浅草 歳の市と羽子板市についてみてきました。

年末に、浅草寺境内で開かれる市が、浅草 歳の市なのです。

ところが、この市の規模があまりにも大きいので、中には商う品ごとにガサ市、羽子板市、蓑市などに分かれていたのです。

そこで今回は、少し視点を変えて、羽子板市そのものから見ていきたいと思います。

浅草羽子板市開催中の浅草寺本堂の画像 写真提供:守山泰弘さん
【浅草羽子板市開催中の浅草寺本堂 写真提供:守山泰弘さん】

【浅草羽子板市】 その1:羽子板市の歴史(前編)その2:羽子板市の歴史(中編)その3:羽子板市の歴史(後編)その4:羽子板ってなに?(前編)その5:羽子板ってなに?(後編)その6:羽子板市に行ってみました①その7:羽子板市に行ってみました②その8:ガサ市に行ってみました

あらためて、浅草 羽子板市とは?

浅草歳の市の一部だった羽子板市ですが、現在では二つの名前が並行して用いられるなど、同じ行事と見られているようです。

小林清親「浅草寺年の市」(明治10年(1878))の画像
【小林清親「浅草寺年の市」明治10年(1878)】

江戸時代には歳の市の日に破魔弓、手鞠、羽子板が売られていたとあり(『東都歳時記』)、『東京年中行事』には雷門前から本堂にかけて羽子板市で店がびっしりと並んだと記されています。

このように、江戸時代から羽子板市は浅草歳の市の花形だったのです。

薬研堀不動(東京都中央区東日本橋)の歳の市の画像。
【薬研堀不動(東京都中央区東日本橋)の歳の市】

江戸各地の羽子板市

また浅草に及ばないものの、江戸・東京の各所で行われる歳の市の中で薬研堀不動や愛宕神社では羽子板店が多く並ぶことが知られていました。

現在でも薬研堀不動では12月26~28日に「納めの歳の市・歳末大出庫市」が盛大に行われていますが、場所柄か服飾関係が主となっており羽子板店は見られなくなっています。

また残念ながら、愛宕神社下の歳の市も かつての賑わいはないようです。

月岡芳年「東京自慢十二ヶ月 十二月 浅草市」(明治13年(1881))の画像
【月岡芳年「東京自慢十二ヶ月 十二月 浅草市」明治13年(1881)】

浅草 歳の市の現在

浅草の里謡に「浅草市の売り物は、しめか、かざりか、だいだいか、雑器に木鉢にすりこ木に、火打石や火打鎌、五とく鉄きう金火ばち、・・・」とあり、まさに「何やかや売り」 歳の市の様子が生き生きと伝わってきます。

しかし、現在ではこれらはほとんど見られないものばかりです。

また、正月用品も現在ではスーパーでも買えるようになっています。

こうして各地の歳の市が衰退して消えていく中で、浅草ではガサ市と羽子板市は残ることとなりました。

浅草の羽子板市は、今や唯一無二の存在となったわけです。

江戸時代以来の歴史が息づく伝統行事、浅草 羽子板市にみなさんも足を運んでみてはいかがでしょうか?

この文章をまとめるにあたって 以下の文献を参考にしました。

また、敬称を省略させていただいたことを申し添えます。

参考文献:齋藤月岑章成編『東都歳時記』須原屋佐助ほか19C初、

菊地貴一郎『江戸府内絵本風俗往来』1905東陽堂、

若月紫蘭『東京年中行事』1911春陽堂【以上、国立国会図書館】、

浅草庵市人著『画本東都遊(下)』1802【足立区郷土博物館】、

網町有信編『浅草寺志』1976名著出版〔原典:松平冠山編著1813〕、

『田沼武能『東京の中の江戸』1983小学館、

三谷一馬『江戸職人図聚』1984立風書房、

西山松之助・南和男ほか編『江戸学事典』1984弘文堂、

小木新造・陣内秀信ほか編『江戸東京学事典』1987三省堂、

渡辺信一郎『江戸の生業事典』1997東京堂出版、

『日本史事典 三訂版』2000 旺文社、

三谷一馬『新編江戸見世屋図聚』2015中央公論社

【浅草羽子板市】 その1:羽子板市の歴史(前編)その2:羽子板市の歴史(中編)その3:羽子板市の歴史(後編)その4:羽子板ってなに?(前編)その5:羽子板ってなに?(後編)その6:羽子板市に行ってみました①その7:羽子板市に行ってみました②その8:ガサ市に行ってみました

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