若き惇麿の悩み【維新の殿様・下野国喜連川藩(栃木県)足利(喜連川)家 ⑧】

前回は子爵足利於菟麿についてみてきました。

今回は、足利家の家名再興を託された於菟丸の長男・惇氏についてみてみたいと思います。

なお、足利惇麿を惇氏と改名した昭和7年(1932)1月を境として二つの名前を使い分けることにしました。

さらに、足利惇氏の兄弟たちや学友・弟子たちの手記があるおかげで、子爵足利惇氏の歩みだけでなく、内面の葛藤や人間像までかいま見れる非常に貴重な事例ですので、3回にわたってお届けします。

足利惇麿(1901~1983)

明治34年(1901)5月9日、子爵足利於菟丸と日野澤依長女の簡(ヒロ)子との間に長男として生まれました。

足利於菟丸(Wikipediaより20210519ダウンロード)の画像。
【足利於菟丸(Wikipediaより)】

惇麿の名は書経の「徳を惇うする」からとった本人は後に語っていますが(「偲ぶ中興への情熱」澄川晴大)これは父・於菟丸の命名でしょうか。

この当時、足利子爵家は東京市本郷区駒込千駄木林町21番地に屋敷を構えました(『最新華族名鑑』秀英舎編1900))が、惇麿が生まれてすぐに東京市小石川区上富坂町30番地(『人事興信録 2版』)、足利家の子どもたちが親しみを込めていうの「久堅町の家」へ引っ越しています。

上富坂屋敷跡推定地、北西からの画像。
上富坂屋敷跡推定地、北西からの画像。

久堅町(上富坂町)時代

さて、惇氏によると、この「久堅町の家」は平屋の一般的な住宅だったようです。

そしてここ「久堅町の家」で0歳から5歳になる直前まで、惇麿は幸福な幼年時代を送りました。(第12回「足利子爵家上富坂屋敷を歩く」参照)

この家で明治35年(1902)10月3日に長女彰子、明治37年(1904)1月13日に二男尚麿、明治38年(1905)11月11日に二女恆子が生まれて、家族でにぎやかで楽しく暮らしていました。

ところが、明治39年(1906)3月、書生の放火によって「久堅町の家」は全焼、その生活は突然終わりをつげてしまったのです。

この火事は幼かった惇麿の心に深い傷跡を残しました。

学習院初等科時代

その後、一旦東京を離れて、母の出身地に近い京都府愛宕郡下鴨村森本町24番地に移り(『最新華族名鑑 明治41年12月調』)、ほどなく東京に戻っています。

惇麿は東京に戻ると学習院初等科三年に編入、「兄の学級は、東組と西組に分かれ、東組に今の陛下が在学されて居り、院長は、乃木大将であった。」(「惇兄のこと」遊上尚麿)とあるように、昭和天皇とは「ご学友」、相撲を取った間柄だったのです。

「四谷時代の学習院」(『学習院史 開校五十周年記念』学習院編(学習院、1928)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「四谷時代の学習院」『学習院史 開校五十周年記念』学習院編(学習院、1928)国立国会図書館デジタルコレクション】
昭和天皇(『輝く憲政』自由通信社編(自由通信社、昭和12年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【昭和天皇『輝く憲政』自由通信社編(自由通信社、昭和12年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

逆賊の子孫として

この学習院初等科五年生のとき、惇麿は衝撃的な体験をすることになりました。

長くなりますが、ここはやはり惇氏本人の手記を見てみましょう。

「歴史の科目のとき、あすからいよいよ後醍醐天皇の建武の中興にはいるというその前日、きつと私の童心を傷つけるとでも思ったのであろう、担任の先生がわざわざ私を一室に呼んで、明日から建武の中興にはいる、足利尊氏のことが出てくるが決して悪く思わぬようにと(中略)お達しを受けたことがある。はたしてその翌日の歴史の時間、足利尊氏の悪名が先生の口から出てくるたびにクラス全体の友人たちが一せいに自分の方に敵意ある視線を向け、授業時間中幾度も同様なことを経験した」のを手はじめとして、「わが少年時代は常に辱められた気分の連続であった。」(「尊氏と私」)

よほど心に強く刻まれていたのでしょう、のちに惇氏は繰り返しこの体験を語っています。

東京府立第一中学校時代

惇麿は大正3年(1913)に学習院初等科を卒業すると、東京府立第一中学校、現在の東京都立日比谷高校に入学します。

当時の住まいは、麹町区三番町78番地(『華族名簿 大正6年3月31日調』)。

父・於菟丸からは少年時代に繰り返し家系図を書かされてほとんどそらんじるくらいになり、「明治天皇が正成や隆盛や尊氏について人間批評をされたことがあり、陛下が尊氏を大人物だと仰せになったとの事」を聞かされたりして、家に対する自覚を養われていました。

こうして「中学五年生の頃の私はようやく人生問題について悩み出」した惇麿は、上野の国立図書館にこもって勉強に打ち込み(「わが図書館の思い出」)、その答えを見出そうともがき苦しみます。

足利尊氏と惇麿

中学五年のころ、惇麿はここでも忘れられない経験をすることになります。

それは、鎌倉長寿寺にある足利尊氏の墓を参拝したときのこと。

「私の参拝した当時は、墓の五輪がばらばらに散らばりすこしも墓の体裁をしていない。夕暮どきであったが、墓守のじいさんは、いくら五輪をなおしてもだめです、小学生が先生に引率されてきてはくずしてしまい、「このにくらしい尊氏めが」と言っては踏んだり蹴ころがしたりするのです。先生は微笑してだまってそれを見ているんですから‥‥‥という話」を聞いて、「ほんとになさけなくなり、また心にやる方ない憤りを感ぜしめた」(「尊氏とわが家」)

家名再興への思い

また、このとき寄泊していた基氏の菩提寺・瑞泉寺の住職新倉松堂師から、「辞去の時、師の作つていた香りの高いバラの花をたくさん贈られたが、その時、「どうか家名を揚げて下さい」と云つた言葉が、急に自分の心に滲み込んで、何だか眼頭が熱くなる思いがした」(「京都と鎌倉」)経験も忘れえぬものでした。

深まる苦悩

その後、いよいよ進学という頃の心境を、のちに惇氏はこう記しています。

「逆賊の家に長男として生れ、その上、長男として家に対する責任の自覚をも考える時、わが悩みは募るばかりであった。同級生の大部分は大たい、一高、帝大というコースを踏むことを念願し、従って、その修学意欲は、今日でいう受験勉強的色彩が濃厚であった」

これに疑問に感じる中で当時祖母のいた大阪別院で仏教を学ぶ機会があって、「受験的中学生の世界とは全く違った世界」に大きな感銘を受けたのです。

そして「宗教的世界に入って修道しようと決心した。そして、一生をこの求道の世界にわが青春を賭けたわけである。」(以上「わが細く遥かなる道」)

こうして惇麿は中学卒業後にすすんで仏門に入り二年にわたる修行生活に入るという決断を下しました。

惇氏は以上のように述べているのですが、いっぽうで同志社大学の同級生はこう聞いたそうです。

「学習院の中等科を卒業されたころ、父君の教育方針に反発された先生は、少々誇張もあるかも知れないが、庭掃除の箒木で父君を殴り、そのまま家を飛び出して九州に走り、一寺に身を寄せられた。」(「足利先生の面影」羽田明)

真偽のほどは定かではありませんが、逆賊の汚名を着せられた名家の長男としての苦悩と、だからこそ出自とのかかわりが少ない工学系への進学を強く勧める父・於菟丸の教育方針の板挟みとなって、追い詰められた惇麿の姿が目に浮かぶようです。

大正9年卒業生(『東京府立第一中学校創立五十年史』東京府立第一中学校編(東京府立第一中学校、1929)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【大正9年卒業生『東京府立第一中学校創立五十年史』東京府立第一中学校編(東京府立第一中学校、1929)国立国会図書館デジタルコレクション  惇麿は九州に行ったので不在、枠写真の左から二枚目が惇麿ではないかと思います。】

さて、今回は若喜足利惇麿が、深い苦悩の中でもがき苦しみ、ついに西大久保の実家を飛び出すまでを見てきました。

次回は、彼が師との出会いによって光明を見出すまでを見ていきたいと思います。

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