前回みたように、ようやく成功が見え始めた矢先だったのにもかかわらず、藩主長守は林毛川の藩政改革を頓挫させました。
その理由を、長守は江戸藩邸再建資金を用立てるためとしていますが、どうやらそれだけではないようです。
そこで今回は、毛川の藩政改革が失敗した理由を探ってみましょう。
林毛川の失脚
じつは、直書申し渡しの2か月前にあたる安政2年(1855)10月に、藩は大掛かりな処分を行っていたのです。
林毛川は減俸のうえ閉門蟄居、久保半弥は減俸のうえ奉行役御免、秦魯斎は減俸、山田新右衛門は御城代から御家老に降格、安田六郎兵衛と脇屋右馬介は家老御免、波多野蔵人は奉行役御免。
こうして林毛川の藩政改革は破綻し、藩政改革に全身全霊で取り組んできた毛川たちは、藩邸再建費用と引き換えに、詰め腹を切らされたのでした。
この処分も、領民の意向を忖度して藩主が行ったように見えることが、なんとも悲しい気分にさせられませんか。
こうして藩主長守は22歳となって、もはや後見役を必要としないまでになっていましたので、ここから親政を布くことにしたのです。
そして毛川は失意のうちに晩年を過ごし、安政5年(1858)7月に没しました。
林毛川・藩政改革の真相
さて、ここで林毛川の藩政改革についてまとめてみましょう。
毛川の改革は、藩校は盛況で良い効果を生み出していましたし、長山講武台の築造も、直後にペリー来航がありましたので、まさに最高のタイミングといえます。
さらに、「産物改会所」も順調に発展して、不可能とも思えた藩財政改善へ光明を見出していました。
毛川が育成した煙草と生糸を中心とする産業は、近代勝山の基幹産業にまで発展しますので、毛川が近代勝山の礎を築いたといっても過言ではありません。
まさに結果が出ていたので成功目前のように見えますが、じつは根本的問題をはらんでいたのです。
藩政改革の根本的問題
毛川の改革の最終目標を覚えておられるでしょうか?
そう、「強固な藩の支配権力を確立すること」でしたね。
毛川の路線は、封建制のなかで基本的には正しいのはいうまでもありません。
しかし、幕末の時代にあって勝山藩は、軍備を充実するにも領民から民兵を募らねばならないのは前にみたところです。
そのうえ、藩財政の状況を考えると、領民からの献金や借入金に頼らなければ身動きできない状況にありました。
つまり、現状は領民の協力なしに藩を運営することは不可能で、そういう意味では藩主長守の行動は避けられないものだったといえます。
毛川は本望?
つまり、毛川の藩政改革は、そう遠くないうちに領民の反発で破綻する運命にあったといっても過言ではないでしょう。
ちなみに、藩主長守は、過去の悪政の責任のすべてを毛川たちに押し付けることにして、改革の成果だけを受け継いで新しい藩政を切り開くことになるのです。
ひょっとすると、古風な考えを持つ毛川にとってみると、藩士は藩主に尽くすものですから、案外本望なのかもしれません。
ここまで林毛川の藩政改革をみてきました。
強権的な改革がうまくいかないのは、水野忠邦や井伊直弼をみると、勝山藩に限ったことではありません。
次回は改革の成果を受け継ぐ藩主長守の活躍をみてみましょう。
《林毛川の藩政改革については、『福井県史』『林毛川』『物語藩史』『日本地名大事典』『三百藩藩主人名事典』『三百藩家臣人名事典』に基づいて執筆しました。》
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