前回みたように、五島藩は捕鯨からの収入を期待できなくなってしまいました。
さらに藩財政悪化がすすみ、そこから悪夢のような事態が巻き起こることになっていきます。
そこで今回は、この極度の財政悪化が招いた事態をみていきましょう。
五島藩再びの財政危機
一時期、地域を支える産業にまで発展した捕鯨業が、急速に衰退したところを前回みてきました。
五島では鯨ほかにも、イルカやマグロ、イワシ、キビナゴなどを獲る網があって運上銀を納めています。(『物語藩史』)
さらに、シイラも五島の名物で藩への運上銀がありました。(『海の国の記憶』)
たしかに五島は日本有数の漁場でしたが、これらから得られる収入では藩の財政を改善させるほどではありません。
またまた増税
そこで藩は収入を増やすべく、捕鯨業が一時停滞した延宝3年(1675)には領内検地と新地改、人別改を行います。
くわえて、農民には棕櫚皮、漁民には鶏の尾羽と物納を新たに設けて増収を図りました。
そこへもって、延宝年間は毎年のように風水害が起こっていたうえに、前回みた富江との境界紛争で捕鯨が一時中断してしまいました。
前に見たように、捕鯨で暮らしていた人が多かったのですから、これが完全にストップすると収入が途絶えて村民は飢餓状態に追い込まれてしまったのです。
農漁村の疲弊
こうした状況では、多くの人が奉公人や賃金労働となって村を離れざるをえませんでした。
その結果、労働人口が流出して農村が荒廃する悪循環に陥ってしまいます。
そこで藩は再開墾を奨励するとともに、奉公に出るのを12歳までに限定するなど対策を打つものの、その効果はほとんど現れません。
さらに農漁村の荒廃が進むと、さらなる藩財政の悪化にみまわれましたので、藩は運上銀を新設して増税をおこないました。
これにくわえて、元禄期には五島にも貨幣経済が浸透して農村をさらに追い込むこととなります。
藩財政が悪化すると、増税をくり返し、これが農漁村の疲弊を招いて藩の収入減少を引き起こすという悪循環から抜け出せなくなってしまったのです。
相次ぐ藩主の急逝
不運なことに、藩主も盛勝はこの盛暢が元服するのを見届けた翌日の延宝5年(1677)12月13日に34歳で江戸屋敷にて死去。
さらに跡を継いだ盛暢も元禄4年(1691)6月7日に30歳で病気により急逝と、あいついで藩主が働き盛りの年代で死去してしまいます。
その結果、未成年の藩主が続いて藩行政部の腐敗も次第に深刻となっていきます。
盛暢が急逝したために、元禄4年(1691)9月14日わずか5歳で襲封した五島家七代(宇久家二十六代)盛佳(もりよし・1687~1734)の治世においても、財政悪化に歯止めがかからない状態となりました。
借金に次ぐ借金
前に見たように、捕鯨業も赤字に転落して頼りにならず藩財政がひっ迫するなか、はじめは江戸や京・大坂の大商人から融資を受けるようになります。
ところが、それでも止まらず長崎の貿易商からも多額の借金をしてしのがざるを得ない状況になりました。
元禄3年(1690)には長崎商人伊藤小兵衛から借銀した際には、彼を長崎屋敷の御用商人に取り立てざるえませんでした。
こうして、地元商人たちも利権を期待して藩に融資するようになってしまったのです。(『物語藩史』『三百藩藩主人名事典』)
奉公人だらけの島
こうしたなか、元禄14年(1701)には大飢饉が発生します。
貨幣経済の浸透と相まって農漁村の荒廃が一気に進み、多くの農漁民が身分を変えて転落していきました。
ついに、譜代奉公人が蔓延して終身奴隷制に近い状態にまでなってしまったのです。
この状況に対して、なんと藩は現状を追認して制度化し、譜代奉公人と化したものからも未納の税や夫銀を徴発しようとしたといいますから驚きを隠せません。
人別把握体制の確立
五島では、夫銀を徴収するために他藩で類をみない人別把握体制、つまり当時一般的だった家単位ではなく人単位で課税する制度が確立したのです。
こうして、藩収入確保のために農漁民を犠牲にした独自の領国経済体制が出来上がっていきました。
今回みたように、もはや五島では終身奴隷制に近い譜代奉公人が蔓延する状況は変えようがないところまで来てしまいました。
このままでは五島の農漁村は疲弊して人がいなくなってしまいかねません。
この危機に五島藩はどう対応するのでしょうか。
次回は、五島藩が導入した稀代の悪政「三年奉公制」についてみてみましょう。
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