前回は柳川藩鳥越中屋敷についてみてきました。
柳川藩中屋敷でもっと有名な出来事といえば、好事家の西原一甫(にしはら いっぽ)が謹慎していたことでしょう。
そこで今回は、この屋敷で謹慎していた西原一甫についてみてみましょう。
西原一甫
一甫は、屋号松蘿館、耽奇、兎園会などの名で知られています。
柳川で生まれ、幼くして江戸詰用人格だった父に連れられて江戸藩邸に移りました。
文化7年(1810)から14年(1817)まで江戸詰用人を務めるかたわら、文化7年5月、滝沢馬琴・谷文晁ら好事家たちと耽奇会をつくります。
そして第一回を上野不忍池畔の談々亭で開催し、奇花・化石・珍木・異草・古書画・玩器など各自が所有する珍品奇物を持ち寄って展示鑑賞したのです。
この会合は、文化8年(1811)11月までに20回にも及びました。
さらにその珍品奇品の図と考説を『耽奇漫録』に順次収録、これを12冊にまとめると、大いに評判となったのです。
参加者は、曲亭(滝沢)馬琴と興継(琴嶺)親子、山崎美成、屋代弘賢などのそうそうたるメンバーで、一甫も西原好和の名で参加しています。
謹慎
こうして書物が人気となるにつれて、耽奇会のほうも珍奇なものが大好きな江戸っ子たちの評判となったのは当然のことなのかもしれません。
いっぽうの主催者側は、この人気に驚いたようで、耽奇会を兎園会と名前を変えたりしつつも、会をつづけました。
ところが、ついに幕府の知るところとなり、文化11年(1814)1月17日、風聞よろしからずと大目付よりお咎めがあり、役儀解任、柳川帰郷を命ぜられてしまいます。
しかし、八代藩主鑑寿は留守居役を免じたのみで、そのまま中屋敷で謹慎させたのです。
いっぽうこの時、幕府の意向を無視することができずに一甫を柳川に帰したとする文献資料も存在していますが、一時的なものだったのでしょう。
そして文化14年(1817)7月15日には用人助役小姓格となり、下谷の上屋敷に戻ったのです。
この一甫、文政4年(1821)に隠居して柳川に還り、悠々自適、晴耕雨読の生活を送って84歳の天寿を全うしました。
柳川藩中屋敷の廃絶後
話を柳川藩中屋敷に戻しまして。
明治4年(1871)11月に、廃藩置県により上京を命じられた最後の藩主・立花寛治は、柳川藩上屋敷を下賜されて移りました。
いっぽうこの時、柳川藩の中屋敷と下屋敷は上げ地され、いずれも町地へと変わっています。
そして明治5年(1872)に中屋敷跡は、小島町に編入されたのでした。
その後、関東大震災復興事業の区画整理によって、中屋敷跡の街区は大幅に改修されて原型をとどめないまでに改変されてしまいます。
また、そのときに敷地を南北に分断する形で左衛門橋通りが作られたことで、通りを挟んで南三筋町と小島町に分割されました。
さらに戦後の住居表示の変更によって、三筋1・2丁目と小島1・2丁目に四分割される形になって現在に至ります。
付近を歩いてみましたが、かつての柳川藩中屋敷をしのばせるものは残っていません。
これは、関東大震災後の大規模な改変と、東京大空襲でほぼ町が焼失したことによるのでしょう。
今回は西原一甫と柳川藩鳥越中屋敷についてみてきました。
次回は、現在休憩している小島公園から見えている旧小島小学校についてみてみましょう。
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