前回は、新宮水野家越中島中屋敷についてみてきました。
そこで今回は、藩邸内に設けられた洋式調練場についてみてみましょう。
新宮水野家調練場
では、忠央はどうして越中島に広大な屋敷地を必要としたのでしょうか?
じつは忠央は第21回「付替え一揆」でみたように、家臣たちに洋式調練を行いたいと考えていました。
そこで、忠央は榊原家から譲り受けた屋敷地と、自分の屋敷地を合わせた場所に調練場を設けたのです。
もちろん、この頃は忠央が活躍して権勢を誇っていた時代ですので、榊原家も協力したのでしょう。
ところが、『東京市史稿 市街編49』によると、この屋敷は嘉永6年(1853)に上地となり、代わりに高木主水正の下屋敷の一部、渋谷に5,500坪の土地が与えられています。
この渋谷の中屋敷の所在地は、青山高樹町、現在の港区南青山6・7丁目の一部です。
じっさいに新宮水野家が越中島の屋敷地を引き渡したのは嘉永7年(1854)2月、渋谷の屋敷地を受け取ったのが安政元年(1854)5月23日のことでした。
忍藩松平家添屋敷
新宮水野家から上げ地された越中島の屋敷地は、そのまま忍藩に下賜されて、忍藩松平家添屋敷に組み入れられました。
そこで、忍藩添え屋敷についてみてみましょう。
『江東区史』によると、ペリー来航後に江戸湾防衛のために築かれた台場のうち、品川第3台場の担当となった忍藩が、この台場付近に下屋敷として与えられたものでした。
そしてこの付近に、品川第3台場附属の屋敷と幕府の講武所付調練場が設けられたのです。
忍藩がこの場所に屋敷を拝領したのは、隅田川の流路を考えると、品川から出向くよりも深川からの方が比較的迅速に連絡できたからといいます。
越中島講武所調練場
ところが幕府は、この場所が水運に恵まれていたことから製鉄所の建設を目論んでいたといわれています。
そのため、この地は元治元年(1864)9月に幕府によって公収されることとなりました。
この製鉄所というのは、伊豆国の韮崎につくった反射炉が成功したことを受けて、より大きな規模のものを建設する計画だったようです。
しかし建設に着手する前に明治維新を迎えて、製鉄所が建設されることはありませんでした。
いっぽう、忍藩添屋敷の隣にあった幕府公営の越中島調練場は機能し続けていて、幕府が雇い入れたフランス軍人による幕府陸軍の調練が行われました。
その内容は、講武所が中心となって実施し、砲術を中心としたものだったといいます。
越中島練兵所
明治維新が起こると、旧幕府の施設は明治政府に接収されましたが、越中島も例外ではありません。
明治政府は、明治元年(1868)にいちはやく元忍藩下屋敷に軍務局を設置します。
この軍務局の入り口にかけられたのが、前々回に見た練兵衛橋で、当時は太子橋と呼ばれていました。
軍務局は兵部省の下で、人事と総務をあつかう部署として明治4年(1781)7月29日に改めて設置されて、明治6年(1873)4月1日には「第二局」と名称変更しています。
これは、明治5年(1872)2月28日に陸軍省が設置されて、翌明治6年(1873)4月1日に第一局が設置されたことによるものでした。
それぞれの所轄は、第一局が人事を、第二局が歩兵と騎兵をあつかうことと定めています。
その後、明治12年(1879)には人員局と改称しますが、この人員局も明治19年(1886)2月26日に廃止されました。
この廃止に伴って、その用地が越中島調練所に追加されて、調練場が拡大したのです。
また、幕末は越中島屋敷とセットになっていた品川台場は、富津沖に海堡が新たに建造されたことで、その実質的役目を終えています。
明治天皇行幸
この越中島調練場には、明治天皇がたびたび行幸して練兵天覧が行われています。
主なものをあげると、明治3年(1870)9月8日の練兵天覧、明治5年(1872)9月15日の近衛兵操練展覧、明治6年(1873)12月9日の陸軍練兵天覧、明治8年(1875)6月7日の海軍大砲試験天覧がありました。
なかでも有名なのが明治3年(1870)の天覧で、閲兵に際に、イギリス公使館の軍楽隊長フェントンが作曲した「君が代」を西謙蔵が指揮して披露したのです。
これが「君が代」の初めての公式演奏とされて、記念碑が建立されています。
越中島練兵場の終焉
明治時代の初めは、まだ日本の軍事を藩兵組織が担う時代から近代的な統一軍制へ移行する時期でした。
このため、幕府が開設した軍事施設をそのまま使用することになったのです。
しかし、近代的な日本陸軍が創設されるとともに、装備が大幅に進歩すると、越中島練兵所は手狭となっていきました。
このため、越中島調練所は練兵場と名を変えて明治時代中期までは存続しましたが、明治24年(1891)7月1日に廃止となり、陸軍要地になったのです。
まさにこの時、陸軍の軍制が鎮台制から師団編制へと変わるとともに、組織的演習は「特別大演習」となって、関東平野全体の規模で行われるようになっています。
ここまで新宮水野家から幕府、そして日本陸軍へと引き継がれた洋式調練所(練兵所)についてみてきました。
そこで次回は、練兵所の廃止後にこの地に設けられた陸軍糧秣本廠についてみてみましょう。
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