ずいぶん昔の話ですが、私が高校生の時のこと。
博覧強記で知られたクラスメイトが突然私にこう話しかけてきたのです。
「大学で歴史を学ぶんやったら、イスラムが研究できる学科があるとこがええねんて。ない大学は、二流やって。」
誰がそんなこと言ってるのか聞くと、新聞の切り抜きらしきものを見せてくれました。
内容はともかく、私は著者名にビックリ仰天驚!思わず聞き返したのです。
「この書いた人、「足利惇氏」って、本名?」
「なんか、足利家の末裔、元華族様らしいで。すごいやろ!」
これが私と足利惇氏先生との出会いでしたが、そのまますっかり忘れていたのでした。
そして現在、幕末から終戦まで、大名家の歴史をたどっていて、ふと昔のことを思い出して『足利惇氏著作集 第三巻 随想 思い出の記』を拝読したところです。
そこには、名門華族の教育や家庭環境、抱える悩みなど、当事者にしかわかりえないことが丁寧に記されて、心躍る体験が出来ました。
そこで今回は、この足利惇氏先生の著作にお手伝いいただきながら、大名・華族足利家の歴史をひも解いてみたいと思います。
なお今回、足利家の家紋は「五七の桐」と「丸に二引」の二種があるのですが『江戸幕藩大名家事典』、『江戸時代全大名家事典』、『平成新修旧華族家系大成』などの文献に準拠して「五七の桐」を、また家名についても江戸時代は「喜連川」を名乗っていますが、「足利」主とし、「喜連川」を併用しますことをご容赦ください。
足利家の歴史
足利家の歴史は、足利惇氏によると、「私の家は尊氏の三男である関東管領基氏のあとであるが、永享の乱の後鎌倉をすてて下総古河の古河公方として居城し、後、北条氏の新興勢力のあおりを食って更に下野喜連川に落ちのび、明治維新までずっとその地から離れることはなかった。」(「嫌だった子供の頃」)
みごとな要約ですが、次はこれをもう少し詳しく見てみましょう。
鎌倉公方誕生・足利基氏
鎌倉公方は関東公方とも呼ばれ、室町幕府が東国支配のために置いた鎌倉府の長官のことを指しています。
正慶2年元弘3年(1333)足利尊氏は嫡子義詮を鎌倉にとどめて関東の統括を命じたことで鎌倉御所(鎌倉公方)が誕生しました。
貞和5年正平4年(1349)尊氏の弟・直義が失脚すると、その地位を義詮が継ぐこととなって、それまで居た鎌倉から京の都に移ることになったのです。
そうなると、鎌倉を空けておくわけにもいかないので、その後を尊氏三男の基氏が鎌倉に入ったのでした。
そして、観応の擾乱後には一時期尊氏が鎌倉に滞在して直接東国を統治する時期もありましたが、尊氏が京に移ると、ふたたび基氏が鎌倉公方として東国を治めることになります。
1363年基氏は尊氏の母の家系である上杉憲顕を関東管領に任命して補佐役とし、鎌倉府の体制が確立しました。
足利氏満
基氏のあとを継いだ氏満の時代になると、鎌倉公方の権力は関東一円に広がっていきました。
1380年から10年以上にわたって繰り広げられた下野小山氏の乱を鎮圧すると、「天子ノ御代官」と自称するまでにその威光は高まったのです。
1392年には将軍足利義満から陸奥・出羽の管轄権を譲られて、鎌倉公方による関八州と伊豆・甲斐・陸奥・出羽の12か国に及ぶ東国支配体制が確立しました。
氏満は将軍義満とは犬猿のなかでしたが、政治的には協調体制を取ったことで幕府と鎌倉府の関係も安定して発展することになったのです。
ひょっとすると、足利尊氏と弟の直義が骨肉の争いを演じ泥沼化した観応の擾乱を見ていたからこそ、その再現だけはさけたかったのかもしれません。
そして、応永5年(1398)に氏満のあとを継いだ満兼は、その翌年に奥州支配をより強固にするため、弟の満貞・満直をそれぞれ稲村・篠川に派遣しています。
足利持氏
応永16年(1409)に満兼が死去すると、嫡子の持氏が継ぎました。
この持氏と関東管領・上杉氏憲(禅秀)が激しく対立するようになって、氏憲が関東管領を辞職、ついに応永23年(1416)氏憲は持氏への反乱を起こします。
これが「上杉禅秀の乱」で、これはどうやら室町幕府第四代将軍持氏が鎌倉府をけん制するために起こしたようで、乱終息後に幕府と持氏の関係が悪化していきました。
さらに、正長元年(1428)に足利義教が将軍につくと、持氏が将軍就任を目論んでいたこともあって幕府と鎌倉府の対立が激化、いっぽうで鎌倉府の内部でも幕府との協調を唱える関東管領上杉憲実と持氏の対立も顕在化して、ついに永享10年(1438)永享の乱が勃発してしまいます。
関東管領を支援する幕府方と持氏方との合戦が繰り返されますが、持氏方は各地で敗北、劣勢となると謀反も相次いで、ついに永享11年(1439)持氏は自害し、鎌倉公方は滅亡します。
しかし、持氏遺児の春王丸・安王丸を奉じて下総の結城氏が結城上に立てこもった結城合戦をはじめ、幕府と関東管領上杉氏の反発が収まることはありませんでした。。
こうして鎌倉公方は滅亡してしまいましたが、その血脈は途切れることなく受け継がれて、よみがえることとなります。
そこで次回は、関東の足利家が復活する様子を見てみることにしましょう。
(今回は、『国史大辞典』関連項目と『地名大辞典』栃木県・茨木県の関連項目を元に執筆しています。)
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